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【プノンペン/カンボジア】キリングフィールドで感じた事の話

2020年5月13日

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プノンペン3日目。

日本代表のチケットをゲットしたからには試合のある17日までプノンペンに滞在しないといけない。

今日はポルポト政権下で大量殺戮が行われた場所の一つ、キリングフィールドという場所へ。

昨日からおれがゲストハウスから出てくる度に「マイフレンド!!、キリングフィールドへ行こう!!」と勧誘していたバイクタクシーの彼。

彼の客引きは常軌を逸していて、毎度毎度、乗らない!と断わるも10分以上歩くおれに並走して付いて、おれがどこか店に逃げ込まない限りどこまでも付いてくる。

なんなんだこいつは!どんだけ暇なんだ!?こんなこと、インドでもなかったぞ!?

もうしつこいを通り越して、その必死さにえらく感心してしまい、いくらなの?ととりあえず聞いてみた。

片道30分の行き帰り、おれの見学中待っててくれるという条件で最初の提示額は15ドル。

先にネットで下調べしてたら5ドルで行けるよと書いているものもあれば、20ドル払った、という話も。正直相場がどのくらいなのかはわからない。

とりあえず、「別のバイタクは5ドルだって言ってたぞ!」とけしかけて見た。

往復だよ!?アリエナイありえない!!

とジェスチャーで反論してくるけど、粘って粘って最終的に10ドルになった。

それでもまだ粘ってたら、「分かった!なら8ドルだ!でも、お昼ご飯は奢ってよ!」と言ってくる。

飯代なんて大体二ドルぐらいだからおなじじゃねぇか!と思ったけど、多分雰囲気的に10ドルぐらいが相場なんだろな~と思って、それでオッケーした。

彼の名前はラッキー。

片方のイヤホンを渡されて、情緒系のカンボジアンミュージックを爆音で聴きながら、陽気にいざ出発!!

彼はほとんど英語は喋れないようで、
おれ「カンボジアの歌ってベトナムのに似てるよね?」
ラッキー「あぁそうさ!ベトナム大使館はこの辺りだよ!」

という具合で一度も会話は成立しなかったけれど、可愛い子とすれ違えば毎度毎度二人してハッと振り返り、なぜか道に落ちていたブラジャーを見つけては二人で笑い、なんとなく気が合って言葉なんていらなかった。

そして、「ここが宮殿だー!」「ここはワット!”テラ”だよ!」と、うまく喋れない分頑張ってお客さんを楽しませようとしている必死さが伝わってきて、ドライブ中も楽しませてくれた。

彼に奢ってくれと図々しく連れて行かれたレストランだったけど、地元の人と行かない限りまず食べることはないだろなという感じの、ちいさなクモみたいなカニや魚かなんかの内臓の煮付けみたいなのとか頼んで、貴重な体験ができた。

まぁそんなで陽気に向かったキリングフィールドだったけど、その中身はなかなかに悲しい場所であった。

そもそもキリングフィールドとは、killing field 。

1975年から1979年までカンボジアで政権を握ったポルポトの、理想的共産主義追求のために迫害され、殺されたたくさんの一般市民達の、処刑場だった場所である。

よく知らなかったので調べてみると、このポルポト、サイコパス中のサイコパスである。

彼は、所有欲にまみれる階級社会、資本主義を憂いで、人はお金や物を持つから不幸になるんだ、全てを捨てて、生きるために最低限必要な食をまかなうためだけに全員が農民として働くことこそが本当の国家の幸せだ!と考えた。

その考え方自体は一理、わからないでもないが、そんな紀元前のような生き方を実現させようなんて、小学生でも無理だと分かる。

でもポルポトはそれを本気で実現させようとしたのである。

1975年、ポルポトが政権を握ると、彼はただちに国を鎖国状態とし、政権交代の翌日、とんでもない命令を全国民に命じた。

「都市部に住む人々は、お金を含める所有物を全て国に預けてただちに農村に移住すること!」

その日から着の身着のままに無理やりトラックにのさられた人達は、次々と郊外の国営の農場に運ばれていって、そこで過酷な労働を命じられた。

もちろん反発する人はたくさんいたけれど、容赦なく殺された。

それでも、当たり前だけれどこのありえない政策に不満を持つ人が多すぎて、ポルポトは考える。

「よし、反発する可能性のある物は邪魔だから全部殺そう。」

考え方が常軌を逸しているが、ポルポト自体は自分の理想とする社会を作ることこそがみんなの幸せと信じきっているのである。
なぜみんなが不満を持つのかが分からない。
狂気の境地である。

そして、都市部に住む人達の中でも、移住に反対する人はもちろん、反乱を企てる可能性のある人はどんどん殺されていった。

博識者、医者、教師、大学生。

エリートほど自分の理想に対して異論を持ちやすいと考えた彼は、そういう人物を片っ端から殺害しだす。

最後には国内にいる医者がたった10人ほどになってしまい、洗脳が容易な子供に簡単な医術を教え、子ども医者として手術をさせていたと言うから恐ろしい。

そして、次第に死刑認定の選定条件は広がっていき、

金の没収を拒むであろう商人や地主、国際的視野を持っているからと、英語の話せる人、海外に行ったことのある人、しまいにはエリートの可能性があると、肌が白い、またはメガネをかけている、美青年、美少女。
たったそれだけで強制収容所に連れて行かれるようになる。

狂いきっている。

それらの人達が運ばれて、処刑された場所こそがこのキリングフィールドなのである。

全国民が農民か、もしくはそれを管理する軍人としてポルポトの下で働くか以外は生きる術を与えられなかった国である。

当然国家は極限的貧困で、軍も処刑用の鉄砲の球を買うことすら出来ず、刑執行人達は農家から借りてきたクワやナタで同国民を次々と殺害していった。

やらなければ自分がただちに殺される。そんな状況なのだ。

この写真は政権崩壊後に大量の死体が見つかった場所。


この公園内にこうした場所が何十個もある。


奥にミサンガが沢山つけられた大きな木が見える。
体の小さな赤ん坊や幼児は、足を持たれてバットのように振り回され、この木に思い切り頭を打ち付けられて殺されたらしい。

この柵の中に死体を埋める穴が掘られていて、死んだことを確認したら穴に放り投げる。

木と柵の間を歩いた時、頭を押し付けられるようにめまいがして、耳鳴りがした。

今にも泣き叫ぶこども達の声が聞こえてきそうだった。

園内のいたるところに(普通の道の上にも)骨の破片や、衣類の切れ端が雨で流された土の中から見えるのが確認できて、園内には「人骨を踏まないように気をつけて歩いてください」と看板さえある。

誰かが気にかけて避けたんだろう、ボロボロのサンダルと、確実に犬や猫の物ではないと思われる長い骨が道の脇に置かれていた。

このポルポトによる大虐殺、一番の問題は当時、鎖国状態によって海外諸国がこの実情を何も知らず、中国やアメリカはベトナム戦争終結後に新たな道を歩み始めたカンボジア新政権に、支援さえ行っていたほどである。

日本も当時、ポルポト政権を容認、支持の姿勢を見せていた。

結局1979年にカンボジアと戦争を行ったベトナム軍が、プノンペン侵攻の際にこれらの殺戮場を発見し、ポルポト政権を駆逐するまで四年間も、大虐殺は続くことになった。(一見ベトナム人はカンボジア人に感謝されてもいいような気がするけど、なぜかカンボジア人はあまりベトナムが好きじゃない。なんでだろ?)

最終的に、主に都市部の人達を中心に推定200万から300万人、当時人口たった800万人のこの国で、4人に一人の人が殺されたことになる。

もしこの当時インターネットがあって、カンボジア人が現状を世界に発信することが出来ていたら、こんな結果にはならなかっただろう。

ベトナム戦争博物館でも思ったけれど、情報社会が戦争、紛争の解決にとって最も重要な手段の一つだと言うことを、改めて認識させられた。

そしてこの国の悲しい過去をしっかりと伝えるこんな公園が残っている事は良い事だけれど、僕が見学中、出会った客は僕ら外国人だけだったのが残念。

もっと入場料をさげるなりして、自国民にこそこの惨劇と教訓を伝えていくべきだと思った。

外国人も自国民も一律6ドルでは、ただ裕福な外国人が悲しい物語を見て胸を痛めるだけのテーマパークになってしまう。

沢山の人達がこの歴史を直視して、本当の国民のための政治とはなにか?を真剣に考えてこの国を良くする事こそが、亡くなられた人達へのせめてもの償いであるように感じた。

まぁそんなでちょっと暗い気持ちで公園を後にした俺。

今大量殺戮の現場を見て心を痛めている俺に「近くに射撃場があるぞ!!ショットガン!行かないか!?」と陽気に営業してくるラッキー。

もちろんそれは断ってホテルまで送ってもらって、思いの外楽しませてくれたので、一ドルチップを渡してサヨナラする。

へらへら嬉しそうに去っていく彼。

今のこの国が平和でよかったよ。

そんなところです!