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 【青い空/andymori】この一曲に人生変えられたおれの20代の話

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ぼっちシンガー
ぼっちシンガー

ナマステ!ぼっちシンガーです。
路上ライブで世界一周の旅を終え、現在は東京で音楽活動中。
自分を構成するアートやカルチャーについて暑苦しく語るよ!

『ジャイサルメールにはドロップキャンディーの雨が降る』

このフレーズに、おれは人生を変えられた。

それが正解だったのか愚かな決断だったのか、理由はまだ知る由もないが。

とにかくandymoriの青い空は、おれの生き方そのものを変えた、とんでもない曲なんだ。

今日はそんなことを語ってみたいと思う。

ファーストフルアルバム、『andymori』



2009年発売の、このアルバムの四曲目。

軽快で転がるバケツを蹴り飛ばしてはしゃぐような冒頭の曲たちが終わって、片時の静寂みたいなタイミングで”青い空”は始まる。

ぽっかりと、何かを喪失した心の底から空を見上げて、優しく流れる雲に名前を付けるような、そんな無邪気で無垢なサウンド。

憧れ、理想と現実のギャップに対して、その無力感を嘆きながら、それでも力なく微笑んでいるような歌詞。



それはだれしも一度は経験したことであろう過去への寂寞を伴って語られている気がする。



おれにとってそれは、大学時代の軽音楽部の、卒業ライブの風景だったかもしれない。

体育館に作られたステージで、それぞれのバンドの最後が終わっていく。

誰も、「これで最後。」なんて口にしなくて、「またいつかどこかで、きっとまたやれる」、そんな無形で根拠のない言葉を泣いちゃわないためのお守りのようにマイクとともに握りしめ、MCする。

曲が始まって発狂したように演者観客ごっちゃまぜで盛り上がって、最後のマーシャルのハウった音が消えるまでこぶしを上げ続けていたんだ。

終了して、「もうだめ!」なんてふざけた声で外に出て、体育館前のアスファルトに火照った体をなげうって、

まだ耳鳴りのする頭で青い空を見つめた。

その時の、なんとも言えない静けさと、「もう終わったんだ」って切なさと、大人になりきれない自分たちの幼さに、

この曲はすごく似ている。超個人的解釈ではあるが、そんな曲。

andymoriの音楽は、諦めに寄りそう。

大学を卒業して3年がたとうとしていた。

大学のあった県でそのまま就職して、毎日文字通り身を粉にして働いていた。

働き方改革なんて言葉もなかったころだ。

毎日残業続きで休みもまとまったものは取れないような状況だったけれど。


それでも、そんな忙しい状況は嫌ではなかった。

「忙しい!」と言えることを、一種ステータスのように感じていた。

なんとなく、ちゃんとおれも立派な一人の大人として暮らしている感覚が、うれしかった。

田舎特有の、男は20代はしっかり働いて結婚して、30になったら家を建てて、なんて固定概念にどっぷり浸っていた。

このままこの会社で定年まで働いて、そのうちマンション買って、車を買って、って考えていた。

このままでいいのか?なんて感情の芽はなるべく早く摘み取るようにしていたんだ。

きっと、その新芽は、しがらみの中で人前に出すのを恐れごまかしては、日の当たらない場所で腐らせてしまう気がしていたから。



andymoriの音楽はこのころから好きだった。

彼らの音楽はつねに”諦めの匂い”を感じさせる。

世界を変えるんだって息巻いたシンガーの、その行く先を悟っている気がしたし、

何とかなるさと思ってたけどフラれるし、

上手くいけばいいけど、だめなら悲劇のヒーローになってぼんやり車窓を眺めてしまうような音楽なのだ。

(何を言っているか分からないかもしれないが、そういう歌詞が出てくるのだ。)

シンガーって曲はそういう意味で特に好き。

冒頭から、

「心の声は届かない。どんなに近づいても。」

なんて、絶望的な言葉で優しく語りかける。

職場ですり減らした心をごまかすために、500mlののどごし生を2本買ったコンビニからの帰り道に、ビニール袋をぶら下げて、よくこの歌を聴きながら帰った。

「最近どうよ?まいっちゃうよな。まぁ、でもそんなもんだよな。」

って、語りかけてくれてるような歌で、大好きだった。

”ジャイサルメール”の衝撃。

話を青い空に戻そう。


自分自身の生き方を定められないまま、体裁だけ大人になることに必死だった、25歳。

季節は秋だったと思う。

その日は休みで、近くのイオンのビレッジバンガードで「世界の絶景」系の本を立ち読みした。



”スペインのアンダルシアでは6月、何万本ものヒマワリが咲き乱れる”

らしい。

”ボリビアのウユニ塩湖のトワイライトは、世界が逆転する鏡張りの世界が見られる”

らしい。



いいな。

いつか、行ってみたいな。

いつか、なんて現実味のない言葉を添えて、また自分をごまかしていた。

きっと、そんな未来は俺にはやってこないけれど。

今の暮らしは捨てられないしね。

大丈夫。別に特別じゃなくったって、きっと、十分幸せだ。



そう言い聞かせた夕方、一人の帰り道。

車の中でシャッフルしたアイポッドから、”青い空””が流れた。

いつものように一人、運転しながら歌ってみた。

そのワンフレーズ。



「ジャイサルメールにはドロップキャンディーの雨が降る。」



いつも聞き流していたフレーズだったんだけれど、その日はなんだか変に頭に残っていた。


(ジャイサルメールって、一体何なんだ?)


ふらふらと一人暮らしの部屋に帰ってきて、パソコンを立ち上げてみる。

”ジャイサルメールとは”

検索画面に広がった風景写真に、おれは息をのんでしまっった。


(なんて美しいんだろう…)


そこには、夕陽に照らされる砂漠のフォート、ぞの城壁の写真が掲載されていた。

ジャイサルメールとは、インドの、パキスタンとの国境沿いに位置する砂漠のオアシスの街の名前だった。

その写真では、砂の色は夕陽に照らされて、それはおれの短い人生経験の中では一度も見たことが無い様な赤色をしていて、

眼下に広がる家々も、異世界という言葉がピッタリな形の、土作りの建築物ばかり。


日本とは全く違う風景に、一瞬で心奪われた。


この乾いた大地に降り注ぐ、ドロップキャンディーの雨とは、一体どんな色なんだろう。

そのディスプレイ越しの世界に、さっきまで聴いていた”青い空”の歌詞を重ねては、遠いこの場所に思いをはせた。

そして次の瞬間、燃えるような気持ちが、胸の中からこみあげてきた。


(この場所に行って、青い空を歌いたい。)


馬鹿みたいな願望だけれど、それを抑えることは出来なかった。

その気持ちはまるでからからに乾いた夏の日、炎天下の中で水を飲みたいと望むように、ごくごく当たり前の願望として、心を支配した。

その時だけは、いつも自分を縛り上げていた、(もう若くないんだから)とか、(人生を棒に振るんじゃないか)とか、そんな考えはみじんも浮かばなかった。


行こう。行かなきゃだめだ。このまま先送りにすれば一生後悔する。行かなきゃ。おれはジャイサルメールに行かなきゃ。

いままで本当の気持ちをはぐらかしていた、自分の薄っぺらい体裁や見栄やプライドを蹴り上げるように、そう心に誓った。

その3か月後、おれは仕事を辞めた。

”青い空”が導いた、その後。

仕事を辞めて単発で向かったインドでは高熱や下痢にうなされながら、日本との完全なるギャップに心底辟易し、興奮し、感動した。

旅の最後に滞在したジャイサルメールという街は、想像していたものよりずっとずっと小さくて、

しかし夕陽に照らされる砂漠の世界は写真の何万倍も濃い色で、まるでオレンジのドロップキャンディーのようだった。



ジャイサルメール滞在最終日。

ニューデリーで買ったぼろいギターを背負って、街に出た。

フォートの入口に腰かけてギターを取り出して、くるったチューニングで青い空を歌った。

まるで魔法みたいな時間だった。

この景色全部、行きかう人々みんなが、おれの歌のミュージックビデオの演出のように感じたし、次の瞬間にはこの音楽、そして俺の存在自体が目の前の物乞いのためにあるような気もした。


「絡まりをほどいてもあまり変わらないけど。坂道を行くバスは南の空へ行く。」


めくるめく視点の移ろいのなかで、そう歌っているとき。

その物乞いがこちらにやってきて笑い、そして俺の前で踊った。

なんか彼女のその笑顔を見ただけで、ここに来た価値はあったな、なんて変に納得した。


30歳代になった今。

青い空が導いてくれたこの人生は、絶対的に正しかったとは言えないが、同時に、決して間違えてはいなかったと感じている。

導かれるように訪れたジャイサルメールで、おれは一人の世界一周中の旅人に出会った。

その人の話に胸を打たれ、いったん帰国してお金をためて、また旅に出た。

そこから二年間、音楽をやりながら旅し続けた日々のなかで、本当の幸せがどういった方法で得られるものなのか、ということがなんとなく、理解できたからだ。


それは、旅の中でいろんな荷物を無くしても生きていけた経験から得られた、生きていく上での必要最低限の見極め方であるし、

価値観の180度違う人々との出会いから学んだ、絶対正しい事なんてこの世に存在しないという哲学であるし、

無一文でも旅ができた、様々な奇跡を見せつけられた音楽の力を知れたこと、そして、好きな事をやり続けることの重要性でも、ある。





確かに安定からは程遠い暮らしになってしまったし、もしあのままの生活を続けていたら今頃、結婚して犬でも飼って、子供もできて、それはそれで幸せだったのかもしれない。

けれど、きっとずっと、「あの時思い切ってやりたい事やっていたらな…」なんて、死ぬまで引っかかっていたに違いない。

やった後悔よりもやらない後悔の方が、重く感じる、なんて言うしね。

例えたどり着く場所が世界の果てのどうしようもないところだったとしても、きっと行きたい方に行くことを自分の意志で決める人生には価値があると思う。

だから、これからも自分には素直に生きていきたいと思ってるし、

そんな自分に出会わせてくれたのが、おれにとっては間違いなく、「青い空」だった。



旅に出るまでは、青い空の歌詞は、過去を賛歌するすごく後ろ向きな曲だと思っていたのだけれど。

今になってその冒頭のフレーズが、やけに優しくて、一筋の希望を見出せる歌詞として、感じるようになっている。


”青い空、僕らは忘れるよ。地図に迷い込んだ時は、思い出してほしいよ”


幼い時、社会や大人の概念や、当たり前なんて言葉を微塵も知らなかったときのおれたちは、なにも気にせずに、生きたい人生を選び、生きたいように生きる、その力を持っていたんじゃないか。

大人になるにつれて、知らず知らずに縛られて、身動きが取れなくなってしまった時は、また青い空を見あげてよ。

あの頃のように、曇りなき眼で自分の幸せを見据えられるように。

そんな思いが込められているんじゃないか、と、今はそう思っている。





きっとまた、ここに書いたような暑苦しいパッションも、純粋な気持ちも、おれらはいつか忘れてしまうのかもしれない。

そんな時はイヤフォンをさして、またこの曲をかけて、坂道を行くバスを追いかけて、飛び乗りたいと思うのだ。

ありがとうandymori。

彼らの音楽は一生、おれの青春そのものである。





そんなところです。


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