ばあちゃんが亡くなってお盆に久々にみんなで集まる話


なんがでっきょんな。ぼっちシンガーです。
路上ライブで世界一周や東京での音楽活動を終え、地元の香川にUターン移住。
なんでもない日常を鼻息荒く語る!
この夏、母方の婆ちゃんが死んでしまった。
前々から寝たきりだったし、ここ数日は言葉も話せない、水もろくに飲めないって状況で、「そろそろかも…」みたいな話も聞いていた。
ある程度みんな心構えは出来ていたので、大げさに嘆き悲しむようなことはなく。
ただゆっくりと過ぎ去る夏を惜しむような淡い感情をかみしめるように、
家族みんなで集まってお通夜、葬儀と過ごした数日間だった。
92歳、老衰である。死に顔はやけに健康的でやすらかで、優しい表情であった。
その顔を見ると、
「本人が痛みや苦しみを感じながら命だけ引き延ばすよりは、自然に身を任せてあげたい」
と医師からの悪あがきの延命治療の話を受けなかった母親の決断は、間違っていなかったように思う。

葬式のあと、婆ちゃんの部屋から古いアルバムを見つけ、みんなで眺めた。
母親から、今まで知らなかった婆ちゃんの生い立ちの話なども聞けて面白かった。
昭和10年に地元ではなかなかいい家の長女として生まれたらしいばあちゃん。
小学校を出たら家で働くのが一般的だった当時の田舎の女性としては珍しく、地元の有名な女学校(中学)まで出た才女だったらしい。
そういや、ばあちゃんからは「子供の頃は戦争で大変だった」みたいな話を一度たりとも聞いたことがなかったな。
昔からいろんな人から「お前のばあちゃんはええ家の出身やから」みたいな話をちらほら聞いていて、どうせ社交辞令やろとか思ってたんだが、
実際、戦時中も何不自由ない暮らしを送れるようなお嬢様だったのかもしれない。
しかし、お父さん(おれのひいじいちゃん)を早くに亡くしてからは徐々に生活が苦しくなり、
女学校卒業後は婆ちゃんも働きに出たりしていたらしいばあちゃん。
編み物?織物?なんかでっかい糸織機みたいなやつで布を編む仕事みたいなのをしてて、のちに自分の教室を持って生徒たちに教えたりもしてたらしい。
そして戦後間もないころ、二十歳でじいちゃんと結婚。母親とおじさんの二人の子どもも生まれる。
じいちゃん自身は今のJRである国鉄で一生懸命働いていたが、農家の出身で、決して名家というわけでもなく。
ばあちゃんは母親によく「私は本当はもっといい家に嫁ぐはずの家柄なのに!」などと愚痴っていたそうだ(笑)
そんな、農家の息子で寡黙で職人気質だったじいちゃんと、いい家の出身で社交的で明るいがプライドが高いばあちゃん。
性格がまったく合わなかったのは今でも容易に想像できる。
遊びに行った時はいつも「扉を開けたら締めろ」だのなんだの、どうでもいいことで二人でよくケンカしていたのをよく覚えている(笑)
しかし、なんだかんだ二人にも、孫からは見えない深い絆があったようで。
おれが高校の頃の夏、じいちゃんが死んだときには「じいちゃん、行かないで!」と誰よりも大声でわめきながら涙を流していた。
いつもは、
「私は絶対にあんな人より長生きして余生を楽しく過ごすんや!」
などと憎悪を燃やしていたので(笑)、てっきりじいちゃんが死んだら「清々した!」とか言うのかと思ってたが。
すごく意外だったのと同時に、二人の関係性に少し安心したのを、あの夏、鮮烈に覚えている。
そんな、涙もろくて感情に左右されやすいばあちゃんだったが、おれ達孫のことは本当によくかわいがってくれていたと思う。
うちの親は共働きで土日もあまり家にいなかったので、学校帰りや休みの日はいつも近所に住むばあちゃんに面倒を見てもらっていた。
自分の旦那や子供達には厳しく、感情的に当たることも多かったばあちゃんだが、おれたち孫には常にアマアマだった。
いつも「ご飯食べたんな?」と聞いてきては、おなか減ってると言おうものならテーブルを埋め尽くすほどの大量のお菓子やご飯が出てくる。
ミニ四駆もウルトラマンのフィギュアもゲームボーイも言えばなんでも買ってもらってたし、お年玉もたくさんもらっていた。
「アルバイト」と称して数分畑の草抜きを手伝っただけで1,000円、田植えやら稲刈りやらを一日手伝うと1万円とか渡されてた。
糸織りの先生仲間との食事会で、よく近所のハンバーグ屋やとんかつ屋にも連れてってもらった。
ばあちゃんは見栄っ張りだったから、会計札を断固として離さない。
レジにて「ここは私が!」「いやいつも払ってくれてるから今日は私が!」などと友達とよく小競り合いするのが恒例行事だった。
結局、ばあちゃんが強引に会計札を奪い取っては満足げに支払いを終える姿を眺めながら、
「なぜこんな無駄な争いを好むのだ大人たちは…」
などと子どもながらに冷めた目で俯瞰してたのを覚えている。

今思えば、そんなばあちゃんの金使いの豪快さも、じいちゃんとの喧嘩の種になっていたのかもしれない(笑)
だが、ばあちゃんは、「お金のことは気にしたらいかん。小さい人間になったら恥ずかしい。」みたいなことをよく言っていた。
そこにはばあちゃんなりの人生の哲学みたいなものがあったのだろう。
思えば、ばあちゃんは孫のため、友だちのため、近所の人たちのためにお金を使うばかりで、
別に自分のために高い宝石買ったりブランド品買ったりは全くしていなかったな。
「お金は、使わずにみじめな思いをするより、誰かと楽しい時間を過ごすために使ったほうがいい」
みたいな考えが、根底にあったのかもしれない。
当時は世間体ばっかり気にして散財するばあちゃんのことをおれはよく思っていなくて、ぶつかり合ったことも多かったのを記憶しているんだが、
その良し悪しや深層心理はどうであれ、「誰かへのギブ」が大好きな人だったんだろうなぁと、今になって思う。

通夜のあと、翌日の葬儀に向けて、おれは棺に入れるものを考えていた。
そういえば、ばあちゃんは夏になると、毎週のようにおれたちにウナギを食べさせてくれていたなあと思い出す。
夏になると「もうええわ!」ってぐらい食べさせられ、弟に至ってはウナギが嫌いになってしまったくらいだ。
だから、おれはてっきり、ばあちゃんが狂気的なウナギ好きなのだと思っていた。
最後に好物を食わせてやろう。
そう思い、スーパーへウナギを買いに行ったのだが、値札を見て驚愕した。
うなぎって一匹2000円もするんかい!!クソ高いやないか!!
子どものころは「またウナギかよだるー」などと罰当たりなことを思いながらイヤイヤ食べていたが、
今になって考えると、ずいぶんいいものを食わせてもらっていたのだな…
そんなことをしみじみ感じながら、泣く泣く高いウナギを買い(笑)、
ご飯の上に乗せて、ばあちゃんの棺に入れた。
そのとき、母親から教えられ初めて知る。
実はウナギはばあちゃんの好物ではなく、じいちゃんの大好物だったことを。
ああ、そうだったのか。ばあちゃんは、じいちゃんの好きなものを、夏になるたび食卓に出していたのか。
もちろん、単純に孫たちに良いものを食べさせたかったのもあるだろう。
けれど、その食卓のどこかには、普段は口に出さないじいちゃんへの思いもあったのかもしれない。
見栄っ張りで、プライドが高くて、感情的で、優しい気持ちがあっても、それを優しい言葉にして素直に渡すのが、あまり得意ではない人だったのかもしれない。
代わりに、食べきれないほどのご飯を出したり、孫におもちゃを買ったり、友達から会計札を強奪したりしながら、ばあちゃんは自分なりのやり方で周りの人を大切にしていたのだろう。
向こうへ行ったあと、じいちゃんとまた一緒に暮らすのかは知らない。
じいちゃんが待っているかもしれないし、
「私はやっと自由になれたんやから、もうあの人とは暮らさん!」
と、自由気ままな第二のあの世人生を始めるのかもしれない。
そこはもう、好きにやってもらいたいと思う。
ただ、まずは二人でうなぎでも食べながら、これまでのことを懐かしがりながら話でもしてもらいたいところだ。

今回の葬式では、普段なかなか集まらない家族が一堂に集まった。
みんなでゆっくりご飯を食べ、昔の写真を眺め、ばあちゃんやじいちゃんの話をする。
しんみりする事はあまりなく、懐かしい話で笑ったり、今まで知らなかった昔の話に驚いたりもしたりと、なんやかんやその時間を楽しんでいるおれがいた。
もちろん悲しみもあるが、葬式というのは、ただみんなで泣き悲しむためだけのものではないのだなぁとか感じた。
一人の人生を振り返るために、散り散りになっていた家族が久しぶりに集まり、同じ食卓を囲む。
なかなかこういうことがないと出来ない思い出だと思うし、今回みんなで過ごしたこの数日間は、ばあちゃんが家族に最後にくれたプレゼントだったのかもしれない。
そんなことに気づけた、いい葬式だったと思う。
ばああちゃん、お疲れさまでした。ありがとうな。
そんな感謝の気持ちが、カラッと晴れた夏の空に心地よく登っていく、そんな時間なのでありました。
そんなところです。
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