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『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の考察。インド映画は細かなこと考えてたら楽しめないんだぜっ!って話

2024年5月4日

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ぼっちシンガー
ぼっちシンガー

ナマステ!ぼっちシンガーです。
香川県出身、20代で路上ライブ世界一周、30代は東京で働きつつ音楽活動!
好きなことを好きなように鼻息荒く語るだけのブログだよ!

インド映画、やっぱ突っ込みどころ満載だけれど、おもしろい!!

先日、ずっと見たかった2015年公開のインド映画

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

って作品が再上映されるってことで、見に行ってきたのだ!

キネカ大森っていう小さな映画館で見たんだけれど…なんか、インド映画ってやっぱいいよね。

お客さんもなんとなくオープンマインドな人が多いのか、コミカルなシーンではみんなで声上げて笑って、クライマックスではすすり泣く声が聞こえて、エンドロールが終わった瞬間に、自然と拍手が起きて…

なんかこう、すごいピースフルな気持ちに包まれた時間だったんだ!

この記事では、前半でインド映画特有の「細かなことは気にしない喜怒哀楽が詰まったストーリー」の、その、「なんかやっぱ気になる!(笑)」っていう細かなところを書き出してみて

後半では僕が個人的に感じたこの映画の感想を書き綴ってみたいと思う!!


インド映画は細かなこと考えてたら楽しめないんだぜ(以下ネタバレ含む)

インド映画はドキドキワクワク、ハラハラ、この感情のジェットコースターに乗車してこそ楽しめるものなんだ!

このジェットコースターは赤色だけれど、その意図は?とか考えながら遊園地来るやつがいないように、

インド映画ってのは、頭空っぽにして、押し寄せる感情と感覚の波に身をゆだねること!

それこそが、インド映画を100%楽しむ秘訣なんだ!!

意図とか伏線とか考察とか、そういう日本人的まじめさは、インド映画には不要なんだぜ。

だから、出先でパワンが突然周囲の人たちと息の合った踊りを披露しても、

なんで即興で踊れるの??なんでセルフィー??

とか考えたらダメなんだぜ!!

ストーリーの中でも、ちょいちょい「なんでここでこのシーン??」と頭をかしげてしまう不思議な演出が光るんだけれど、

そんなもんいちいち気にしてたら置いてかれちまうぜ!!




…いや、やっぱ気になるぅぅぅうぅ!!!おれ、日本人だもん!!まじめに分析しちゃうもん!!

そこで、『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の中で出てきた、細かな演出の意図や「なんでやねん!」って思った部分ををちょっとまとめてみた。

バジュランギがニックネームて…本名パワンの方が呼びやすいやん!!

まず最初に、題名でもある『バジュランギ』という名前について。

主人公のニックネームなんだけれど、本名の『パワン』の方が呼びやすくね!!?

ニックネームって本来、本名が呼びづらいから愛称つけて呼ぶんじゃないの!?

って冒頭から心の中で突っ込んでしまった(笑)

「バジュランギ」とは、ヒンドゥー教のサルの神様ハヌマーンの別名バジュラングの信者のことを表わすらしくて、

信仰深いパワンはあえてそう呼ばれているということなのかな。

崖から落ちて声が出なくなったわけではない?

冒頭の最も印象的なシーン。

声が出なくなった理由が、あたかも崖から落ちたショックで後遺症になったかのような描かれ方だったけれど、そうではなさそう!

放牧中にお父さんに「先に家に帰ってなさい」と言われたときやその後の両親の会話から、崖に落ちる前から声は出なかった(生まれつきの病気?)ようだ。

じゃなんで、冒頭であたかも重要な伏線であるような、崖から落ちるスリリングなシーンがあるのって?

んなもん、つかみだよ!!!笑

冒頭でエキサイティングでスリリングな展開があると、グッと映画の世界に入っていけるっしょ!

まぁ、木に引っかかってたシャヒーダちゃんが声を出して助けを呼べなかったことや、すぐどこかに行っちゃう迷子気質な女の子なんだなってことがこのシーンから理解できるから、

そういう意味で大事なシーンなのかしら?

撃たれて死んだんちゃうかったんかい!

実はあの時撃たれてパワンは死んでしまっていた。

あの後のストーリーは、脳死状態の悲しき姿でインドに帰ってきたパワンが病床で見た夢だったのだ…

みたいな深読みは一切不要やねん!

死んでないんや!胸に銃弾を受けようと、そのまま崖から川に落下しようと、インドのスターはそんな簡単には死なんのや!

そのまま治療を受ける間もなくパキスタン警察に拷問を受けたって、不死身なのだよ!!そういうもんなんだよ!!

やたら悪く描かれるパキスタン政府やパキスタン警察

正体不明のインド人を水攻めしてリンチしたり…一般市民にすぐ殴るけるの暴行を働いたり…

パキスタンの警察、悪く描かれすぎだろ!!(笑)

いや、世界的に見て警察官が市民に信頼されてて優しい正義の味方、みたいなイメージの国って日本くらいなのですよ。

南米やアフリカでは、警察官がギャングより悪とされている国もあるし、ガチでパキスタン警察もこんな北斗の拳みたいな人たちばかりなのかもしれんが、

それにしても、パキスタン政府や警察はとことん悪く描かれて、「でも国民は同じ人の心を持った優しい人たちだよ~」って表現がされているのは、いかにもインド映画だな~って感じがした(笑)

逆に、インドのオフィスや街並みなんかはすごく先進的に描かれてるしね。

圧倒的人気者で自分中心で世界が回る、いかにもインドらしい主人公

パワンの登場シーンである「セルフィー」のダンスシーンしかり、

そのあとのバスの乗客みんながパワンを囲んで繰り広げる会話シーンしかり、

最終的にたくさんの群衆にたたえられながらインドに帰るシーンだったり、

「常に世界の中心なオレ」

感が、めっちゃインドらしくて好き(笑)

インドに行ってみるとわかるのだけれど、彼らはまじで周囲の目とか気にしない。自分がどう感じどうしたいか、自分自身に素直に生きているのだ。

そうなのだ!人生の主人公はいつだって自分自身なのだ!同調も謙遜も羞恥心もいらん!

映画内でも、主人公が圧倒的に主人公してる感じが、純日本人のおれには輝いて見えたのだ。

肌の白さで露骨に優遇??垣間見えるカースト制度の名残

シャヒーダちゃんについて、ちょいちょい出てくる「この子は色白で良い」とかってシーン。

パワンも、「こんな色白の子だ、きっと信仰深い子だ。」みたいな謎理論で彼女を肯定していたセリフがあったよね。

ルッキズム警察が大挙して押し寄せてきそうな演出だけれど、インドでは悲しいがいたって普通の感覚。

インド社会は、いまだに生まれながらの身分制度「カースト制」の名残があって、

宗教的上位階層の身分の人になるほど肌の白さを重視してて、結婚相手を肌の色で選んだりもする。

いわば、白い肌は地位と信仰深さの象徴、みたいなところがあるのだ。

生々しいほどに身分差別が垣間見えるところも、それを下手に隠したりしないところも、

インド映画の興味深いところなのである。

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』ただただピースフルで素敵な映画。

まぁ、つっこみどころも多いけれど、とにかくピースフルでワンダフルな映画だったと思う!

まず、シャヒーダがただただかわいい!!!全お父さん没愛案件!!

あかんわ…やっぱ子どもの無邪気なかわいさは正義だわ…!

シャヒーダのためなら「腕輪ぐらいおじさんが10個でも20個でも買ってあげるよ!!」ってなるし、

彼女を家族のもとに返すっていうパワンのことを、応援しないという選択肢はないのよ!!

彼女の笑顔を守るために!って主人公の大義名分に、完全に同意せざるを得ない圧倒的な「愛くるしさ」があるのよ!!

もうわかりきってたことなのよ!!

ずっと離れ離れになってたお母さんと再会できた喜び、そして自分をここまで送り届けてくれたパワンとの別れのセンチメンタル…

もう映画のストーリー的にはお決まりのシンプルなエンディングなのはわかりきってるんだけれど、それでも胸があったかくなるのよ!!

まさに、愛があふれ出す映画!エンドロールで場内のお客さんみんなとハイタッチでもしてこの時間を共有できた喜びを嚙み締めたくなるような、そんなピースフルな気持ちにさせる作品だった!

そして、このお決まりの感動ストーリーに添えられて描かれていたのは、インドに今だ根深く横たわる、インド・パキスタン問題や宗教問題。

これら問題をコミカルに、しかし生々しく表現してる社会派な物語でもあった!

隣で肉を焼くムスリムを「人でなし」のように語るラスィカーのお父さんの描写とか、

ヒンドゥー教徒のイスラム教徒への印象をリアルに表していると思う。

この、異教徒・異文化が隣り合わせで存在する世界を、僕は世界の旅で幾度となく見てきた。

イスラエルとパレスチナ双方が自国の領土と主張する聖地エルサレムでは、ユダヤ人街の通り一つ挟んだ先でイスラム教徒のアラブ人が暮らしていて、

お互いが、自らのルーツに誇りを感じながら、自らが信じる神こそが正義と信じながら、

決して混じりあうことのない生活を続けている。

映画ではかなりコミカルに表現されていたけれど、現実世界でそういう暗くて痛々しいものに日常的に当たり前に触れてきているインド人観客たちは、

この映画をどのように感じ、どんな視点で見ていたのであろうか?

ぜひともインド人やパキスタン人にこの映画の感想を聞かせてほしいと思う。

とにかく、無信教でこういった問題とは疎遠ないち日本人の感覚からすれば、非常に社会派な一面を持った作品でもあったと思っている。

人間の体温にじわりじわりと氷のキューブが溶けていくように、インド人とパキスタン人、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がお互いをゆっくりゆっくりと認めていき、

シャヒーダを送り届けるために協力し合う姿は、人の幸せを願って創造されたはずの「宗教」というものの、本来行きつくべき姿ではないだろうか?などと考えたりした。

宗教を超えた『本当の愛』を持っていたのはラスィカー

印象的なシーンがあって。

ヒンドゥー教徒の寺院を訪れたときに、一人隣のムスリムのモスクに行ってしまったシャヒーダ。

彼女がスカーフを上手にまいて、モスクでお祈りする姿に、

「この子はイスラム教徒だった」

と確信するパワン。

彼は「彼女に裏切られた」と思って、あれだけかわいがってたのに、シャヒーダとはもう一緒には住めないとふさぎ込むのだが。

「自分の娘のような愛しい存在」に対して、宗教が違うだけで「失望」し「忌避する」ように避けようとするあの感覚、無信教の日本人には到底理解しずらいのだけれど。

国民的大スター・サルマンカーンが演じるパワンのこの感覚こそ、大多数のインド人が共感できるマジョリティーな感覚なのであって、

ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間にある溝は、誠実で愛にあふれるパワンでさえも受け入れられないほどの深さで、交わることなどあってはならないことなのだという彼らの一般概念が感じ取れる。

彼らにとって、神という存在がどれだけ大きく、何に変えても(たとえ愛する家族に変えても)優先すべき存在なのだということに、生々しさと悲しさを覚えるのだけれど、

男たちがバカまじめに実直に神様を課題解釈して正義を見失う時、その真理を見極めてくれるのは、いつだって女性だ。

パワンの彼女、ラスィカーは言う。

「イスラム教徒だから何なのよ。この子がこの子であることに変わりはないわ。(家の長である)お父さんには黙っておけばいい。」

見えない神様より、目に見える目の前の愛する人の存在を見よ。

宗教国家にとっては、まるで神への冒涜ともとられかねない危険な表現であると思うけれど、

それでも勇気をもって、本当に大切なものが何なのかを伝えたラスィカーのこのシーンは、

この映画が表現したかったものを体現しているように感じた。

神様に振り回され続けたインド、パキスタン両国の若者たちの、親や社会への声に出せない反骨精神というか、

そういうものを裏でくみ取って表現してるのかな、とも感じた。

あ、また深読みかもだけれどね。(笑)

とにかく、そういうことをいろいろと考えさせられる、いい映画だったな~と思うのです。






そんなところです。




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Posted by gamoyuki