ミッシェルの「世界の終わり」の歌詞が刺さり過ぎる30代の話【セカイ系との関係性についての勝手な考察】
上に飛べ上に!ぼっちシンガーです。
路上ライブで世界一周の旅などを経験し、現在は東京で音楽活動中。
旅と音楽、サッカーなど、好きな事を鼻息荒く語るだけのブログだよ!
2023年12月。
今年も街に流れるマライアキャリーに浮かれたやつらが踊らされる頃、
川崎駅前のしょぼいイルミネーションに照らされながら、僕は歌ってた。
チバユウスケが死んじゃった。
そんなニュースを受けて、なんだかいてもたってもいられなくなったのだ。
今30代の僕にとってはちょっと世代も上だし、ライブもYoutubeの過去映像でしか見たことが無い、遠い存在のロックンローラー。
泣いて悲しむほどのコアなファンではないはずだったんだけれど、
それでもどうしても今日、あの曲を歌いたくて仕方が無くなった。
TMGE、ROSSO、The Birthdayなどなど、各バンドに好きな曲はたくさんあるんだけど、
なかでもミッシェルのデビューソング「世界の終わり」の歌詞の世界観が、大好きなんだ。
退廃的で刹那的な曲だと思ってて、デビュー作だがその後の彼らの、硬派な音楽性からは少しそれた異質な一曲であると思う。
ミッシェルの真髄を表す曲とは言い難い部分もあって、もしかしたら世代ど真中なファンからしたら、
「世界の終わりを一番好きな曲で挙げるなんてモグリやな」とか思われるのかもしれない。
しかし、この曲の持つ詩の美しさに感銘を受けるのは、
現在30代半ばの、僕ら”セカイ系”世代が持つ特異な感性があってこそなのかもしれないなーなんて思って。
今日はそんなミッシェルガンエレファントの名曲、「世界の終わり」の歌詞を、
僕の勝手な観点から、いろいろと考察してみようと思うよっ!!!
もくじ
ミッシェルガンエレファント「世界の終わり」歌詞の個人的考察
リアルとフィクション、両面から眺められる歌詞だなぁと思う。
たぶんリアルな(現実的な)受け取り方をすると、失恋、もしくはだれかとの決別の曲なのだと思う。
巷にあふれる分かりやすい失恋ソングなんかではないよ。
「砂糖が甘いー塩はしょっぱいのー」ってわかりきったことを共感を呼びたくて歌ってんじゃなく、皮肉が効いてる。
やってくる別れを目の前にした時の、ヒリヒリと痛むくらいのリアルな恐怖心、
男女の間のすれ違いをいつかやってくる不可抗力なもの、
”僕”からしたら笑っちゃうくらいに無力で手も足も出ない「世界の終わり」みたいな最終結末。
情の一滴も残っていない、自分のツバでもつけなきゃ掴むことも出来ない乾いた紙みたいな、でもそんな事、みっともなくてくだらんプライドが許さないような、
完全に愛の冷めた、カラカラの”君”の心をするりするりと落ちていく墜落感に、むしろ爽快感さえ覚えるようなあの感覚。
最初は”悪いのは全部君だと思ってた”けれど、結局落ちていく中で、
パンを焼きながら別れの時を静かに待つ、落ち着き払った君の美しさに、やっぱり憧れてしまうような。
そういうどうしようもない痛快さを、感じる。
もう一方、この曲をフィクションの側面でとらえると、
その後のTMGEの硬派でロックンロール、ジャンキーでロカビリーな曲たちからは想像もできないくらいの、
繊細で心細い、救いようのない若さ、弱さを感じる。
もしかしたらその10年後にティーンのあいだで広まる「セカイ系」という概念の、その発信源はこの曲だったのでは?
そんな考察さえしちゃうくらいに。
ミッシェルとセカイ系の関係性についての勝手な考察
その仮説が成り立つのであれば、「世界の終わり」発表時(1996年)に小学生に上がったばかりの僕が、
この曲にシンパシーを抱くのも不思議ではない。
なぜなら、2000~2010年に青春時代を過ごした僕らこそが、この「セカイ系」というジャンルに思い切り毒された最初の世代だから。
ちなみにセカイ系とは、こんな感じの概念の事だそうです。
主人公の少年と恋愛相手の小さく日常的な二者関係(「ぼく」と「きみ」)が、社会関係や国家関係のような中間領域を媒介することなく、「世界の危機」「世界の破滅」といった存在論的な大問題と直結するような物語構造を持つ。高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(2000-01)、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』(2001-03)、新海誠のアニメ『ほしのこえ』(2002)の3作が、代表的な作品として広く知られる。
美術手帖-セカイ系 より引用
あぁ、僕も例にもれず、目が隠れるほどの前髪でモッズコート着て
「この世界に希望なんてないさ」
などと悟ったふりで、ビレバンでエヴァの考察本読んでたさ。
「おれ、やっぱ人とは違うんだ。」
とか思ってたさ…(な、なんだよ!おまえらもそうだろ!!?赤面)
僕らがセカイ系に居場所を求めたのには時代背景もあるんだと思う。
生まれた瞬間にバブル崩壊で不景気のどん底、日本に希望なんて一度も見出したことなくて、親も共働きの残業続きでいつも暗い顔で働いてて、
「あー社会に出たら人生終わりなんだなー」
なんて無意識に思わされてて。
ゆっくりゆっくりと着実に大人になっていく自分が、未来が、怖くて怖くて仕方が無かった。
どこかで、いっそのこと
「このまま巨大隕石でも衝突しないかな。核戦争でも起きて、だれか世界を終わらせてくれないか?」
なんて本気で考えていたんだ。
そんな僕らにとって、「世界の終わり」ってのはある意味、救いだったんだと思う。
タイトルそのまま、ミッシェルの「世界の終わり」みたいな世界観を、
おれ達はずっと、恐怖に震えるふりをしながら、心の奥底では待ち焦がれていた。
乗客に日本人はいませんでしたってうれしそうなリポーターに吐き気を感じながら、
貿易タワービルが崩れ落ちる映像に歓声にも似た悲鳴を上げて涙する、
鑑賞型感傷人間な大人たちを軽蔑しながら。
本当は紅茶飲みながら、きっと焼き上がることはないパンが焼けるのを待ちながら、
ついに未来を無くすことに安堵するように、ただ穏やかな気持ちで待っていたかった。
俺達の望んだ世界の終わりは、そういう美しい世界だったのかもしれない。
希望としての「世界の終わり」をすんなりと受け入れ、「世界の終わりがそこで待ってる」と、
まるで今日の夕飯の献立でも教えてくれるくらいのなめらかさで、
笑いながら”僕”に告げてくれる”君”の、やさしさと強さ。
あの頃の僕たちは、そういう存在に恋をしていたのではないだろうか。
最終兵器彼女と「世界の終わり」の関係性はあるの?
ミッシェルとセカイ系の関係性について、もう一つ憶測までの考察を付け加えるならば、
セカイ系の代表作とも呼ばれる「あの作品」との、偶然とは思えない関係性が挙げられる。
僕が「世界の終わり」に出会ったのは大学生だった2008年ごろ。
軽音楽部で先輩たちがスーツ着てミッシェルのコピバンやってて。
ライブで「I was walkin’ & sleepin’」聴いた時かっこよすぎて、家帰って即Youtubeで調べたんだ。
それでミッシェルのPVを聴き漁ってて、初めて「世界の終わり」に出会った時、
まっさきに浮かんだイメージがある。
“赤みのかかった月が登る時、これで最後だと僕は聞かされる”
この歌詞を聞いた瞬間、すっと目の前に広がったイメージがあって。
それは、数年前に読んでドはまりした高橋しん先生の漫画、
「最終兵器彼女」のあのシーンだ。
元サブカルクソ野郎な僕のお友達たちは、たいがいみんな読んだことあるんじゃないかな?
最強兵器に変えられてしまった女の子「ちせ」と、彼氏の「シュウジ」の物語で、
敵が何なのかも分からないままに世界に振り回されて行く若さゆえの無力さと、
その終焉がたとえディストピアであっても、お互いを守りたい二人の愛を描いた作品だ。
2000年に連載がスタートし、「セカイ系」と呼ばれるジャンルを代表する作品の一つと言われている。
この「最終兵器彼女」で、こんなセリフが出てくる。
実を言うと地球はもうだめです。
最終兵器彼女 高橋しん より引用
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
2、3日後にものすごく
赤い朝焼けがあります。
それが終わりの合図です。
程なく大きめの地震が来るので
気をつけて。
それがやんだら、少しだけ間をおいて
終わりがきます。
昔2ちゃんとかでよくコピペされてたあの名言なんだが、
目に浮かぶ情景が、まさに「世界の終わり」なんだよね。
同じこと感じた人も多いようで、このコピペが書かれた2ちゃんのコメント欄にはよく、
「紅茶飲み干して静かに待つか。」
「パン焼くかー。」
などなど、最終兵器彼女の元ネタを知ってか知らずか、ミッシェルファンとみられる書き込みが続いてたりする。
僕はこの時、確信した。
(僕が知ったのは順番が逆だったが)「世界の終わり」発表が1996年、「最終兵器彼女」が2000年なので、
高橋しん先生は絶対ミッシェルのファンで、このシーンに「世界の終わり」の歌詞を再現したんだ!
と。
しかし、あとでその辺調べてみたが、高橋しん先生があのシーンを「世界の終わり」から着想を得て描いた、
などというソースは見つける事は出来なかった。
「最終兵器彼女」と「世界の終わり」に関係性があるのかないのかは結局不明なんだけれど、
すれ違いながらぶつかり合いながら、時に攻撃的なシュウジのあの感じが、Aメロの歌詞の”僕”にすごくしっくりくるし、
あのサビで歌われる”君”の、すべて悟った先の抱擁感はまるでちせだし、
ほんっとにこの曲をアニメ主題歌にしてほしかった!なんて思っちゃうほどのシンクロ率なんだよ。
その後、2012年にThe Birthday で「さよなら最終兵器」が出たのも、
なんか偶然じゃない気がするんだよな~…
いや…こじつけすぎ…???(笑)
まぁ、まったく確証もない、両作品のファンの勝手な希望的観測なので、
薄っぺらいポテトチップスぐらいなものとでも思っててください…(笑)
まとめ
23.12.6 川崎路上ライブ
— ガモウユウキ / ぼっちシンガー世界を周った後。 (@gamoyou) December 6, 2023
🎙️歌った曲:Weapons of mass destruction・サイレントナイトロックンロール・シンガー・愛の終焉・手と手・ミッドナイトバス・バードメン・世界の終わり pic.twitter.com/5BvmaF6sGa
そんな感じで、チバさんの訃報を聞いて、しばらくそんな考察をうだうだ考えながらミッシェルを聴き漁ってたら、
いつの間にか心の奥底でルーシーがゲットアップして、いてもたってもいられなくなって、
ギター抱えて駅前に座り込んでみたってわけ。
別に涙に暮れて悲壮感たっぷりに追悼ライブしようっていうわけじゃないんだ。
ただ、ただこの人のバンドが、頭勝ち割られるくらいにかっこよすぎて背ビレシビレてて、
今すぐにこの感情の渦吐き出さなきゃ、なんかヤバイ!壊れちゃう!って思わされるんだよ。
まるで、初めてギター握った高校生だったあの時みたいに。あの、中枢引き抜かれる感じ。
チバさんの作った音楽、残したライブの伝説たちは、そうやっていつまでたっても僕たちを「初期衝動」に連れて行ってくれる。
きっとその衝動こそが、ロックンロールなんだと思う。
最後に「世界の終わり」を歌った時。不思議な感覚を得た。
一瞬、チバさんが天国に向かうその最後の数十秒間を、一緒に疑似体験したような気持になったんだ。
”世界の終わりがそこで見てるよと 紅茶飲み干して君は静かに待つ。
パンを焼きながら待ち焦がれている やってくる時を待ち焦がれている。”
フワリこんなイメージが浮かんだ。
なかなかやってこないバスを煙草ふかしながら待ってて、丘の向こうにやっとバスが見えて、
「やっと来たぜ…」なんて言って荷物抱えて乗り込んで、
「じゃぁな!」とか言ってみんなに手を振って乗り込んでいくような、さっぱりした旅立ちのあの感じ。
死への恐怖とか、悲壮感とは無縁の最後。
きっとチバさんは、穏やかな気持ちで、幸福感に包まれながら逝ったんだろうな、なんて。
非常に身勝手で希望的観測なんだけれど、そんな風な景色を見た。
魂が宿った曲には、別の魂が宿る。
こうやってこれからも、どっかの誰かが勝手に魂を重ね続けて、この曲とともに、チバさんは生きていくんだろうよ。
おれもどっかの誰かにとって、魂を重ねられる曲を作れたらいいな、なんて、
そんな風に思った日でありました。
そんなところです。
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