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台風19号(ハビキス)上陸による、都内避難所のホームレス受け入れ拒否問題について。日本のホームレス問題について考察する。

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ぼっちシンガー
ぼっちシンガー

こんにちわ。ぼっちシンガーです。
このブログでは個人的な意見についていろいろ思ったことを書き綴っています。
今回は、 東京の避難所の、ホームレス男性受け入れ拒否 問題について。

概要

2019年10月12日、関東東北地方を、30年に一度とも言われる猛烈な勢力の台風19号(ハビキス)が襲った。この際、東京台東区の避難所がホームレス男性の受け入れを拒否したとして問題になった。ニュースによると、12日夜の雨風が強まる中、ホームレス男性三人がこの避難所に避難をしようとしたところ、「この避難所は区民のためのもの」であることを理由に、受け入れを断られたとの事。結局ホームレス男性達は雨傘をさして外の軒下で雨風に耐えながら朝を迎えたという。また、建物外で暴風雨に耐えていた彼らに対して、出入り口であるからと敷地外に退去させる指示もあったという。実際にこの避難所は区の管理で用意されたものであったが、実際には拠り所のない旅行者や外国人も受け入れされており、「区民のみ避難可能」な厳密なルールは無かったように見られている。

個人的な意見

この件に関して、僕はただただ、日本人として悲しく感じた。僕も関東圏に住んでいるので、その日の夜の事は鮮明に覚えている。ものすごい雨風であった。たとえ屋内に居ても命の危険を感じるほどの暴風雨であり、そんな時に外に追い出されることなど、考えただけでも恐ろしい。命を落とす危険も十分にあったと思うし、日本が、そんな残酷な事が出来てしまう、もしくはさせてしまえる国である事が悲しくなった。政府もその対応が間違いであったとコメントしている通り、区の対応は非人道的であったと考える。

例えば今回の避難所が、お金を払って入るホテル的なシェルターなのであれば話は別だ。営利目的で運営された避難所なのであれば、日本が資本主義国家である以上命の危険が迫ろうとも、持っている金額や身分がその命の価値として換算されてしまうのはわかる。しかし、今回の問題は無料の公共施設、区の避難所で起きた。人の命を守るべき公の場所でこのような事が起きてしまうのはなぜだろうか。

日本人のホームレスへの考え方

なぜ今回のような件がおきたのか。根本にあるのは、ホームレスに対するイメージの悪さであろう。必ずしも全員ではないはずだが、ホームレスというと、不潔で怠惰な性格をした人間、というイメージがどうしても先行してしまう。日本では特に、風貌や体臭といった外見的な批判だけでなく、その内面、人間性を批判する風潮が強いと感じる。日本人は協調性、チームの団結を非常に重んじる傾向がある。日本が、会社のために働き、いかに社会に認められているかを重視する文化である事は、我々日本人が一番わかるはずだ。その点、ホームレスの人たちは社会的貢献がなく、社会に対して生産性がないと判断されがちだ。そこから、自分達はこんなに必死に働き、社会を、日本を動かしているのに、怠けてばかりで卑怯だ、経済活動のお荷物だ、といった心理が生まれる。団結と協調を重んじる社会形態、雰囲気こそが、そこからあぶれた社会への非協力者に対する負の感情のエネルギーではないかと考える。

もちろんこれに関しては、彼らホームレスにも非があるということも理解できる。確かに、彼らの社会貢献性は低いと言わざるを得ないし、公園の違法占拠など、批判されてしかるべき理由もある。しかし、今回の問題はそんな事で説明はできない。それが今回の件の理由としてまかり通るのなら、社会に貢献していない、むしろ損失を招くような人なら、死に至らしめても構わないと言うことにならないだろうか。もちろん、どんな人間でも、たとえ罪人であっても、命の価値は平等である。今回のような、命をも落としかねない大災害において、社会的イメージが守るべき命の判断基準になってはならないと思う。しかし、その判断を鈍らせるほどの強烈な偏見と差別が、この国には存在しているのもまた、事実である。

海外との違い

僕が海外30か国を旅していたころ。諸外国で感じたのは、ホームレスも街中に存在することを許されている雰囲気があるという事。大きな駅やマーケットなど人通りの多いところには数メートルおきに物乞いをする人々が座り込んでいた。人々もそんな物乞い達に小銭を渡してやったり、パンを渡したりしていた。これらの文化の背景には、宗教的な違いもあるのかもしれない。ほぼ無神教、経済第一主義と言ってもいい日本と比べ、他国には宗教が人々の生き方をもコントロールしている国も少なくない。キリスト教では隣人愛の精神があり、他人でも愛をもって施しをする事こそが美しいとされているし、イスラム教徒も弱者を助ける事こそが正しいとされている。有名な一夫多妻制も、経済的弱者であった貧しい女性を助けるために作られた制度と言われる。これらの宗教的背景からか、良いか悪いかは別として、ホームレスもしっかりと市民権を得て、存在することを許容されている雰囲気がある国は多い。

もちろん日本のように弱者に厳しい国も多い。ホームレスとは違うが、シリアからの難民を受け入れ、国を挙げてそれを保護するドイツのような国もあれば、それを拒みユーロを離脱するイギリスのような国もある。日本でも、他国国難時の難民受け入れに対する考えは反対意見が圧倒的。他を受け入れ、共存できる能力というのは、その国々で違いがあるように感じる。

相手の立場と気持ちをイメージする、想像力の欠落。

どうすればこのような事態を無くしていけるのか。正直、なかなか難しいことであると思う。僕が今回この件について胸を痛め、意見を伝えようと思ったのは、過去のある経験からである。

ヨーロッパを旅していた時の頃。その日の深夜、僕はその国の地方都市にバスで到着した。深夜でも入れる宿くらいあるだろうと思っていたが、とんでもない郊外のバス停に降ろされてしまう。あたりには民家がポツポツと見えるだけ。おまけにスコールのような大雨。バス停には屋根もなく、雨に打たれ震えながら、慌てて屋根のある建物を探した。不安の中、あてもなくしばらく彷徨うと、大きな工場のエントランスが見えてきた。深夜でも稼働しているようで、煌々と明かりがついている。その工場の中でなんとか雨が止むまで雨宿りさせてもらえないか、と、思った。偶然入り口に出てきた警備員に懇願するように「中に入れてもらえないか」と聞いたのだが。とても冷ややかな表情で、「ノーノー!ここには入るな!」とあしらわれた。藁をもすがるような気持ちで助けを求めたのに、それを断られ、再び大雨の中に放り出された時、心の底から悲しくなった。後から考えてみれば、こんな深夜に怪しいアジアンを工場内に入れられる訳がないのは当たり前にわかる。しかし、(これで助かった)、と希望を込めてそこを頼った当時の僕には、心底堪えた。こんな天候なのに、なぜそんなひどいことができるのだ、と警備員に理不尽な怒りを向けた。あの時の事を思い出すと、嵐の中締め出されたホームレスの人たちの気持ちが痛いほどイメージできた。

しかし、比較的裕福な日本では、寝る家がなく、助けをも求められないような環境、生死に関わるような状況になる機会というのは少ない。もしかしたら僕も、このような旅の経験がなければ、追い出された人たちの気持ちなど知る由もなかったのかもしれない。

イメージをする気持ちが大切だ。自分がもし彼のように外に追い出されたらどんな気持ちになるのか。想像力を鍛える教育が必要だ。そんな力を一人一人が少しずつ持ち合えば、今回のような残酷なことは起こらなかっただろう。

まとめ

今回の件で最も悲しくなったのは、ニュース記事に寄せられる読者のコメントを眺めた時である。

「税金を払わず土地を不法占拠するような人達が、こんな時だけ国を頼るなんて卑怯だ。」

「いつも野外で寝ている人からしたら、屋根付きの避難所なんて贅沢だ、ホームレス用に隔離施設を作るべきだ」


など。

実際現地に避難した一般人から、体臭がどうしてもきついから隔離してほしい、などと要望があったのならまだ理解できるが。その人の社会的価値に私刑を与えるような感覚で、人命を軽視する人々も多くいる。この国で守られるべき基本的人権とは、社会貢献度や人格で判断されるべきものではなく、全ての人に平等に与えられたもののはずだ。上のコメントのような意見も出るように、日本におけるホームレスに対する人権軽視の意識こそが今回の問題を助長した。なので、僕は現場で対応した職員が悪だとは思えない。上からの指示があったのかもしれないし、すでに避難している人々から受け入れするな!と圧力があったのかもしれない。避難している一般人に関して言えば、ストレスのたまる避難所での時間に、人間性や衛生面で不安のあるホームレス入れたくないという人の気持ちは痛いほどわかる。何も普段からホームレスと仲良くしろ、とは言わない。しかし、このような未曾有の大災害時は、小さな摩擦を恐れて人の命を救えない国民であって欲しくない。多発する異常気象や来たる巨大地震など、次なる災害時に備えて。全ての人が思いやりを持ちながら、平等に命を守られる環境、社会に変われる事を、切に願う。


そんなところです。




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