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【都市部の電柱の地中化問題から考える】何でもかんでも世界のスタンダードに合わせる必要はない気がする話。

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ぼっちシンガー
ぼっちシンガー

ナマステ!ぼっちシンガーです。
路上ライブで世界一周の旅などを経験し、現在は東京で音楽活動中。
旅と音楽、そのほか好きな事を鼻息荒く語るだけのブログだよ!

先日、とあるツイートを目にした。

日本では街を歩くと必ず見かける「電柱」。

しかし実は世界の主要都市では、電柱を地中に埋め込む「無電柱化」が一般的なんだよーって内容がシェアされている。

調べたところによると、ここに記載された都市以外でもハンブルクやマドリード、ローマなどヨーロッパの多くの都市が独自の景観規制を制定し、電柱がほぼない街並を実現させている。

またアジア各国でも、シンガポールや香港、台北など主要国の都市は軒並みほぼ100%を実現。

東南アジア新興国でも首都の無電柱化率は日本より高い、とされている。

こんなデータを見せられると、

「こりゃ確かに問題だ!かつてアジアをリードする存在だった日本がここまで世界に後れを取っているなんて!」

と声高に叫びたくなる気持ちも分かる。

しかし個人的には、こうした意見がもてはやされる際に毎度、ある違和感を感じてしまう。

それは、「そもそも、全てのインフラや価値観を先進国のスタンダードに合わせる必要ってあるの?」という感覚だ。

はじめに

まず最初にこの記事は、引用させていただいたこのツイートの意見を批判するものではない、という点は明記しておきたい。

リプまで読むとわかりますが、このツイートの主旨は、「世界基準に持っていけない日本の政治家の無能さ」を批判しているわけです。

電柱の地中化はその理由の一つとして触れているだけで、根本にある現在の日本の政治に対する意見には大方同意。

利権者と高齢者に優しい政治を重要視し、今国としてもっとも取り組むべき少子化問題はパフォーマンスだけで効果的な施策を打てない。

そんな現政権に対する不信感と言う点では、同感し納得させられるツイートでした。

その趣旨とは別に、個人的にこのツイートを元にインスピレーションを感じ、別視点から考察してみた事を書きのこしておこう、と言った感じの記事です。

書いていくのは、

現在の日本に無電柱化は必要なのか?

また、

世界のスタンダードを必死になって追いかける必要はあるのだろうか?

という疑問についての個人的な見解である。

都市部の無電柱化、日本には必要?

香港の路地。雑多な裏路地にも電柱は一本もない。

まず、 現在の日本で本当に無電柱化は必要なのか? という点を考えていきたい。

そもそも都市部の無電柱化を実現することのメリットはなんなのか?

ツイートによると、無電柱化することによって得られる主なメリットは2つ。

①台風などの災害に強い

②景観の維持


これらが挙げられている。

まず①であるが、電線の地中化を実現することで、台風などの強風で電線が倒れ、停電が発生するような問題がなくなる。

また、東日本大震災の際は倒れた電柱が道をふさぎ、緊急車両の到着を妨げてしまったケースもあった。

地中化することでこれらの心配はなくなるだろう。

当たり前であまり気にしていなかったが、考えてみると確かに、人が歩いている道のすぐ横に12~16mものコンクリートの柱が立っていると思うと、少し怖いものである。

災害時の避難路になる道路や人通りの極端に多い道などでは率先して地中化を進めるべきかもしれない。

しかし、これらのメリットは日本の場合は裏返しにもなりうる。

地震の際にもし地割れなどで地中で断線してしまった場合は、修復にコストと時間がかかる点だ。

もちろん電柱の場合は地震で倒壊するリスクが高いので一長一短だが、地面を掘り起こす必要が無い分修復は早い。

地震大国である日本においては、地震のない欧米諸国とは少々状況が違う点を理解しておく必要はありそうだ。



次に②に関して。

ヨーロッパ各国、特に観光都市が無電柱化に力を入れている理由がこれで、無電柱化によって美しい街並みの景観を汚さない点が非常に重要視されている。

日本でも、例えば伊勢神宮で有名な伊勢市・おかげ横丁が無電柱化を含めた街の再開発を行い、開発前と後で観光客の数が10倍に増加したケースなどが報告されている。

確かに、中世ヨーロッパ風の街並みや古来日本の街並みに電柱があるのは少しイメージに合わない。

古い街並みの景観を大事にする都市が電柱地中化を進めるのは、効果的なのかもしれない。

しかし、個人的には昔ながらの商店街に張り巡らされた電線、その隙間から見える夕暮れ空などの景色にノスタルジーを感じたりするタイプなので、

電線のある風景に対しては嫌悪感というより、温かさや日本らしさを感じたりもする。

この辺りは美的感覚の違いにもなってくると思うが、すべての場所・すべての人にとって「電柱のない景観こそが正義」という感覚は当てはまらないのでは?とも思う。

電線の隙間から見える空や海が、なんか好きだ。

逆に電柱の地中化を推進する上でもっとも大きなデメリットはやはりコスト面だ。

こちらの記事によると、電柱の地中化を進めるためには一般に総工事費は1キロ当たり約5.3億円がかかるとされている。

その金額は地上に電柱を立てる従来の方法の5~10倍。

国主導で地中化に取り組んだとしても、地中化の負担は国・地方・電力会社の三者負担になっており、コスト回収のための国民へのしわ寄せは必ずあるだろう。

こちらの記事によると、日本の電気代はただでさえ高いと言われている。(約25円/kWh。アメリカは約10~15円/kWh)

地中化を理由にさらなる値上げなどを実施されてはたまったものではない、と言うのも切実な思いだ。

景観とか気にしないから、もっと電気代下げんかい! と、庶民感覚で感じる意見はそんなところである。



以上のメリット・デメリットをまとめてみて個人的に感じた事は、

災害時の避難道路付近や、歴史的な古都の景観を大事にする街にのみ、電柱の地中化は有効。

ただし、それ以外のエリアでは無理に地中化を急ぐ理由も無いんじゃない?政府主導でやるなら、もっと先にやるべきことあるでしょ?

と言うのが僕の意見だ。

例えば、インドでは地上に大量の電線が張り巡らされているせいで感電事故が起きたり、違法に線を繋ぎ変えて盗電する問題が後を絶たない。

そんな場所であれば地中化するメリットも十分あるんだろうけれど、今の日本で停電や盗電といった問題はそれほど一般的ではない。

本当に必要かどうかも不確かなのに「周りの国もみんなやってるから」「電柱が無い景色の方が美しいと皆言ってるから」という周囲との比較ばかり気にするのは、

ちょっと違うんじゃないかな、と言うことを、個人的に考えた。


何でもかんでも世界スタンダードに合わせる必要はないと思う。

電柱の有無にかかわらず、世界の先進都市と比べて日本の都市がスタンダードしゃないものって、他にもたくさんある。

例えば、街中のゴミ箱の数。

オーストラリア・シドニーに住んでいた時、驚いたのが街中のゴミ箱の数の多さだ。

ほんとに、ストリート間隔で各セクションごとに冷蔵庫みたいに大きなゴミ箱が設置してある。

しかも「ゴミの分別をする」なんて感覚は皆無で、缶だろうと瓶だろうと、生ごみだろうと全部その中にぶち込んでおけばOK。

オーストラリア人は適当だなーなんて思ってたんだが、その後世界を周ってみても、ヨーロッパの環境先進国でも同じようなゴミ箱の量、そして捨て方だった。

日本だと、街なかのゴミ箱なんて自販機の横の缶・ペットボトル専用のものぐらいでほとんど見かけない。

しかし、

「それでは日本も先進各国に足並みを合わせてゴミ箱を増やしましょう。分別もせずに捨てましょう。」

って話が出るかと言うと、そうはなってない。

日本では自分の出したゴミは持ち帰る、分別をきちんとする、ってマナー意識が人々の中で根付いているため、

ゴミ箱が無い社会でも街がきれいに保たれているからだと思う。

ゴミ箱を大量に設置すると、ゴミ回収などのコストもかかるし、衛生面や景観の面で良くない事も多い。

日本人にとってそれが必要ないのであれば、同じことをやる必要はないのだ。



それでも、「最近では世界から後れを取らないように」という意識が強迫観念のように働き過ぎて、物事が変な方向に行っているケースがしばしばあると思う。

欧米のジェンダーレスの価値観に歩調を合わせすぎたために、都会の女子トイレが削減されて、逆に性差別とも取られかねないようなゆがんだ状況が出来てしまっている昨今のジェンダーレス施策などいい例だ。

果たして、こういったインフラや価値観について、すべてを先進各国のスタンダードに合わせる必要はあるのだろうか?

個人的には、その必要はない、と考える。

日本人はもっと「日本人」であることに自覚と誇りを持ち、「周りがどう見るか?」ではなく「我々がどう考えるか?」を大切にしたほうが良い。

世界を旅した友達が、日本に帰国後、日本一周の旅を敢行した際の感想で、

「日本はどこまで行っても日本だな、と思った。」

という事を話していた。

どこまで行っても同じようなチェーン店、同じような言葉、同じようなカルチャーで、世界を旅した後に回ると面白みに欠けると。

例えばインドでは同じ国内でも言語も文化も宗教も違う人々が、ごった返して暮らしている。

エルサレムでは、ここはイスラエルのもの、と主張しているユダヤ人の街からストリート一つまたぐと、エルサレムはパレスチナのもの、と学校で教えている。

同じ島国でも、フィリピンでは各島で言語も文化も違い、それぞれの島の人々がそれぞれの文化に誇りを持って暮らしている。

対して日本は、ほぼ単一民族である点もあってか、「周囲と同じでなければならない」という意識が強い。

良くも悪くも、周囲の目を気にしすぎるところがあるため、

都会ではこれが当たり前だから我々もやらなきゃ。と東京のスタンダードを追い続けた結果、北から南までどこまで行っても変わり映えのない街並みになってしまったのかもしれない。

日本国内であれば、同じ民族、同じ価値観を共有しているので、それでも良いのかもしれないが、

その「スタンダードを追い続ける姿勢」を世界基準に向けた時、そこには大きな歪みが生じる。

現在世界の「先進国のスタンダード」を作り出す立場にある欧米諸国の人々と我々日本人との間には、 「集団主義」か「個人主義」か という点などで人種の持つ価値観・文化に大きな違いがあるからだ。

ホフステードの6次元モデルという、世界各国の人々を「集団主義」か「個人主義」かに分類したスコアを見ても、その違いは理解できる。

また、宗教観による価値観の違いも大きい。

例えば死刑制度。

日本では、まだ死刑制度が残っているのに対して、欧米では21世紀になってからほとんどの国が廃止を決めている。

キリスト教文化圏では、罪に対して懺悔したものに対して「許す」と言う行為は美しいもの、と考える。

たとえ死刑レベルの犯罪人に対しても、愛を持って許すことが道徳的に正しいと考えるので、死刑廃止は割とすんなりと受け入れられた。

一方の日本人では、キリスト教のそういった価値観の影響は少ない。

一番多くの人が進行する神道では、土地や血縁によって結ばれた共同体の概念を大切に扱ってきた。

その「和」を乱す行為には制裁が下るべき、と考える価値観が一般的だ。

また二番目に多い仏教でも、輪廻転生の概念があり、大罪を死を持って償うという価値観の方が受け入れられやすい。

これら人種的・宗教的な理由から、日本の良さを無視してまで無理に欧米諸国の後を追う必要などなくて、

日本人としての価値観、アジア人としての価値観をもっと尊重し、それに合った街作り、国作りを見極めていくことが大切ではないだろうか?

と、そんな風なことを考えた。

まとめ

日本にいると他国との違いを悪い事として取り上げられることが多いけれど、

そうじゃなく、我々の文化・価値観なんだと自覚し誇りを持つこと・そして取捨選択は必要だよね、という事を書いてみました。

もちろん、よくある「日本すげぇ!」みたいな薄っぺらい自己満足じゃなくて、他の国の良さも、自国の良さも共に認め合い、尊重し合う感覚が大切だと思う。

以上、ちら見していたツイートの内容を深堀りし、あれやこれや思考する記事でした。

このような考察の機会を与えてくれたツイート主さんに感謝。


そんなところです。



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