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退職後の幸福感に関する考察。幸せに生きるためには、仕事以外で熱中できる趣味を持て。

2019年8月5日

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ネットニュースで、面白い記事を読んだ。

嫌韓、嫌中をネット上で汚い言葉を交えて叫ぶ人物、所謂ネトウヨと呼ばれる人の多くが、仕事を定年退職した65歳以上の年配の男性だった、というデータがあるそうだ。

忙しい会社員人生を終え、ゆっくりとしたセカンドライフを送っているはずである彼らが、何故そういった過激な思考に至ってしまうのか。

現在定年退職を迎える60〜70歳くらいの年代の人たちは、モーレツ世代と呼ばれ、身を粉にして働き、出世こそが男の喜び、と定義されその身の全てを会社に捧げてきた世代と言われている。

現代日本を築き上げた功労者といえる人たちだが、その会社を退職すると、これまでその全てをかけてきた会社と言う社会を離れる事となる訳だ。

そんな、彼らにとって人生そのものとも言うべき場所を失い、肩書きをなくして、”ただの人”に戻ってしまったことによる喪失感というのは、僕たちにも想像できる。


これまで下につき、頼ってきた周りの人達がいなくなることで、自分の価値や、優位性を社会に示したい、という心理が増す。

そして人間とは悲しいもので、そのようなときに、明確な敵を作り上げて、それを攻撃することで、自分の価値を見出そうとしてしまう。 

自分の存在価値を探すうちに、日本人というアイデンティティにすらすがり、明確な敵として中国人、韓国人を攻撃することで、その不安な心理状況を安定させたいとする心理が働いていると推測されるらしい。

もちろん嫌韓、嫌中の思考を持つ人たちの中には他にも色々な理由があるのかもしれないが、少なくとも、誰かを過剰攻撃するその深層心理にあるのが、自己肯定感の維持からくるものなのであれば、その人の心はとても幸せとは言えない状態にあると思う。

過激思考でなくとも、仕事を退職した途端、正気を失ったように家に引きこもるようになり、ただ一日中テレビを見て残りの人生を消費するだけといった状態になる高齢者の話もよく聞く。

”肩書きを無くしても、他者と自分を比較することなく、充実した人生を送るためには”

これを考えることで、人生の幸福度は大きく変わってくるように思える。

逆に言えばまだ、終身雇用が当たり前だった頃は、定年退職までは自分の居場所を失うことはなかったと言える。

しかし、人や情報が流動的に動く現代だ。

終身雇用など幻想、とさえ言われて久しい。

住む社会が変わっても、それでも変わらず人生は楽しい、と充実感を持って生きていける事が、僕たち令和時代を生きる世代が目指すべき幸せであり、同時にそれを見つける事が僕たちの世代の課題であると思う。

具体的にどんなものが、個人単位で幸せを感じられるものなのか。

どう生きれば、それを見つけられるのか。

そういったことを、今回は考えてみようと思う。

仕事以外で熱中出来るものを持つ

個人単位で幸せを感じるために必要なこととして、結論として僕が考えるのは、

時間を忘れて熱中出来るものを、仕事以外で持つべき

という事だ。

皆さんは、毎日毎日仕事続きでプライベートな時間も無く、ふと長期の休暇をもらった時に何をすればいいかわからない、ただ適当に部屋で動画見て終わる、なんて事はないだろうか。

そんな人は退職後、前述のような状況に陥る危険性があるだけでなく、

近い未来でも、働き方改革による有給の義務付けや労働時間の見直しなどで、労働者のプライベートの時間を作る事にやっと本腰を入れて取り組み始めたこれからの日本で、非常に損なライフスタイルを送る可能性がある。

日本人はこんな時代だからこそ、自分の幸福度を高めるプライベートタイムの過ごし方について、一度真剣に考えるべきだ。


海外ではどうだろう。

僕が一年ほど暮らしていたオーストラリアでは、皆仕事を定時に切り上げては、夕方の時間を家族との食事時間に当てたり、友達達と公園にギターを持ち寄って音楽を楽しんだりしていた。

みんな、プライベートタイムに何をすれば自分が楽しいと感じられ、自分の幸福度を高めるのかを理解しているように思えた。

また、会社では年に4週間ほど、消化義務のある有給休暇をもらえる。

そのバケーションで、趣味のサーフィンに明け暮れるために海沿いの街に長期滞在する人や、プログラミングが好きで勉強をしたいからとタイに長期滞在してセミナーに参加する人など、皆きっちりとその休暇を自分のやりたい事で消化していた。

その姿は本当に楽しそうで、本当にイキイキとして見えた。

彼らと関わりを持ってみて感じたことは、

それぞれ自分の人生をかけてやりたい事があって、それを実現するために仕事をやっている

と言う感覚だ。

日本人が、いい仕事をするために休みを取っているような感覚で休暇をとらえている人が多いのに対して、まったく逆のその感覚を、非常に新鮮に感じたことを覚えている。

まぁ、長期休暇がもらえ、自分の時間がたっぷりあるという環境が、休暇を楽しく生きられる人々を生む、と考えると、休暇の少ない日本人が休暇に何をやったらいいかわからない、となるのも仕方ないのかもしれない。

仕事はみんな、日本と同じく死んだ顔でしていたし。

しかし、仕事もある程度楽しくやり、そしてそこで稼いだお金と作った時間で、本当に好きな事に熱中出来るのなら、こんなに幸せな事はないと思う。

自分の好きな事を突き詰める事が、プライベートを、そして人生を充実させる事につながる、ということだ。

しかし、そんなモノを自分は持っていない、どうやったら見つけられるのか、という人も多いと思う。

次は、自分の好きなものを理解するにはどうしたら良いか、を考えてみる。

好きなものを見つけるために自分に正直になるべき。

よく、アニメや漫画が好きなのに、初対面の人にそれを隠す人がいる。

何故それを隠すのかと聞くと、オタクだとバレるのが怖い、気持ち悪がられるんじゃないか、というのが理由だと言う。

僕はいつもそんな人に、「そんな事ないよ!好きな事があるって素敵じゃん。」と伝える。

僕の彼女は香港人なのだが、漫画とアニメが大好きだ。

BL(ボーイズラブ)風の作品も好きで、付き合う前から、部屋の本棚に堂々とコレクションしてあった。

いわゆる腐女子というやつだ。

日本人ならそんな趣味があってもなかなか表には出さないのだろうが、彼女はそれを隠さない。

好きに対してまっすぐで、好きな声優に会いに行きます」と包み隠さず会社に伝えて休みを取って、地方までイベントに行ったりする

僕は彼女のそういうところがかっこいいなぁと思っているし、好きだ。

どうせ他人が何に興味があるかなんて、誰も気にしていない。

本当に自分が好きなものなら、胸を張って公言すべきだ。

日本人は本当に、好きなものを好きと言うのが苦手だ。

人と違うものを好きでいいのだ。

みんなが好きなお笑い番組で笑えなくていい。その特異性がすでに、自分自身のアイデンティティだと言う事を理解すべきだ。

そして、これから興味を持った事には、この歳で、とか、恥ずかしい、とか考えてはいけない。

とにかくチャレンジしてみる気持ちが必要だ。

好きな事をやる事に胸を張るべき。

人目を気にせず、ただ純粋な気持ちで興味のあるものに手を出していくことが、熱中できるものを見つけるための第一歩であると思う。

好きなものがあれば、友達がいてもいなくても人生楽しい

熱中できるものができると、どう変わるのか。

これは僕の実体験だが、

好きなもの、熱中して取り組めるものを持つメリットとして、他人に必要以上に興味がなくなる、という事も言えると思う。

興味がなくなる、というと、少し冷たい聞こえになるかもしれないが、要は他人に頼らなくても、自分を幸せにしてあげられるようになる、という事だ。


例えば、休日に誰からも誘いがなく一人ぼっちで過ごす時。

友人や恋人に依存し過ぎていると、誰もそばにいてくれないことが寂しくなり、他人に求められない自分を、価値のない人間だ、などと感じてしまうかもしれない。

しかし、熱中できる何かを持っていると、それがさみしいとは思わなくなる。

誰にも邪魔をされずに好きな事に没頭できるから、これはこれでいい休日だ。

と感じられる。


また、SNSに踊らされなくなる。

みんなで楽しそうなパーティの写真を見ても、たとえ自分がその場に居られなかったとしても、

この人達とは、楽しさの感じ方が違うのかもしれない。

と納得できるのかもしれない。

自分は自分の楽しさの感じ方を知っているという、絶対的自信があるからこそ、そう冷静に分析できる、とも言える。


そして、そこまで興味のない飲み会などに、とりあえず顔を出す、という事がなくなる。

そんな内向的に考えていると友達が減るぞ、と思うかもしれないが、

もしあなたが、友達をとにかく増やして人脈を広げる事が楽しくて、熱中できる事なのであれば、積極的に行動すべきであると思う。

ただそうではない僕の個人的考えでは、

自分の時間は限られているから、好きなものをやる時間を、付き合いだけの人間関係を継続するための時間に取られたくはない。

と考えるし、

時間を使っても、それでも会いたいと思える人にだけ会うようにしている。

この考えで、僕はこれまで数は多くないが本当に深い仲の友達を持てたと思っているし、

一人で過ごす時間も好きなので、もしこのスタイルが原因で友達を失ったとしても、それがそれほど怖い事だとは思わないのだ。

それに必然的に、 好きを追求していくほどに、そのジャンルで友達ができて、また面白い人間関係も築けるものだ。

他人に合わせて、他人に承認されるための生き方から、自分を軸にした、自己完結型の幸せの感じ方、生き方に変わると、自分の幸せの価値をコントロールしやすい。

と、僕は考えている。

人生は自由研究

僕は高校生のときからずっと音楽をやっている。

大学のとき組んでいたバンドで、よく出演させてもらっていた小さなライブハウスがある。

大学も四年になって、就活が始まり、

”社会に出ると音楽も続けられないかな”

なんて思っていた頃、そのライブハウスのマネージャーの女性と話をする機会があった。

還暦を迎える年齢なのに、今も自身もステージに立ち続ける、若手バンドマンにも慕われる存在の彼女は言う。

気にする事はないよ。人生は自由研究だから。

と。

続けて、


自分の興味や関心を、心ゆくまでに研究しなさい。人に見られると恥ずかしいから、とか、お金にならないから、とか、そんな事で自分の好きを止めてしまうのはもったいない。小学生の自由研究の様に、無垢な気持ちで、童心に返って気兼ねなく、突き進みなさい。

そんな話をしてもらった様に記憶している。


なにか、どこかで、

社会人になったらいつまでも遊んでられない、

とか、

プロじゃない限り続けられない、

とか、そんな風に勘違いして諦めようとしていた自分が急にバカバカしくなってきた。

仕事は仕事で、生きていくためにお金は稼がなきゃいけない。

だからそれはそれでやる。

でも、それ以外の時間の部分で、

本当に自分が興味を持ったものを、自由研究のようにただ好奇心に身を任せて、やり続けてみようか。

そんな生き方をしてもいいのかな、とその時思えたのだ。


そしてあれから8年がたった。

バンドこそ、メンバーが散り散りになってしまって解散してしまったが、僕は一人でも、今もひたすらに音楽を続けている。

日々新しい発見があって、あの時よりもさらに、自由研究、というネーミングがしっくりきている。

やはり、本当に好きなものなら、どんな状況でも、何歳になっても、飽きるまで続けるべきだと思っている。

あの時、素敵なお話をして頂けて、本当に良かったと感じている。

なりたいシニア像へのまとめ

世界一周の旅をしている時、二人のご高齢のバックパッカーに出会った。

お一人は元会社役員で、退職後に東南アジアを女性目当てで訪れた男性だった。

自分がいかに責任のある職についていたか、会社員時代がどのような人生だったか、延々と話す人だった。

もう一人は、インドで出会った女性で、子供が一人立ちしてやっと自由になれたということで、大好きな一人旅で世界を周っているという人だった。

先の男性の話が過去の栄光を繰り返すのに対して、この女性は、次にどの国に行くか、そこでどんなことをしたいか、と未来の話を繰り返した。

本当に旅が好きで、それを軸に、幸せな生き方をしているなぁと思った。

2人のどちらが、人間的に豊かな生き方をしているのかどうか、その実際は僕にはわからないけれど、

将来自分がセカンドライフを送る時、どちらの人のようになりたいか、

は明確だった。

一つの社会に固執して、広い世界に盲目になりたくはないし、70歳になっても80歳になっても、前のめりに現在と未来を見て過ごしていたい。

人生において、自分が好きなものを大切にする事が、その理想に近づくための必要な要素であるという持論は以前から持っていたが、

前回の旅で、その考えは確信に変わったように感じる。

ただしここで書いたことは個人的な意見であり、多様化する幸せの形の一つに過ぎない。

人それぞれの楽しみ方で人生を楽しむべきだし、異論は歓迎だ。

ただもし、今回の記事が、みなさんが豊かな心で人生を送る事、その小さな手助けになれるのなら、うれしいな、なんて思う。

そんなところです。