感じる事が全て、感じた事が全てな話
ラムチェでの村の生活を終えて。
「何もないのがいい」なんて褒め言葉が、いろんな観光地をお勧めする時によく使われるけれど、ラムチェでの生活を通して感じたことは、ちょっとそれとは違う。
何もない状態の中で、それを当たり前として生きる彼らは知っている。
どれだけあれば、人間は豊かな気持ちで暮らしていけるのか。
足りないという事に、いい意味で鈍感である事。生活の上で必要なものの、本質を知る心を持つ事こそが、いいのだ。
ラムチェを見た限り、お湯なんて出ない、ましてや水道水すらなくても、人は幸せに暮らしていけた。
コンビニも商店もない、ほとんどを自給自足でまかなう生活、しかしそれで充分おなかは膨れた。
ガスコンロもなければ、お湯を沸かすだけでもいちいちまきに火をつけて焚き火を起こさなければならないのだけれど、毎朝朝霧に包まれておれたちの朝のチャーを入れてくれるおばあちゃんの姿は、とても美しかった。
バスで首都のカトマンズに帰ってきた時。
もう陽は暮れていて、ちょうど停電の時間だったので街は街灯もなく薄暗かったはずなのだけれど、蓄電池のある外国人向けのバーやレストランの看板の光はポツポツ見えた。
見て、思った。
「もったいねー!全然必要ないやん!」
日本なんか帰ったら発狂してしまうくらいだろうな、決して明るいとは言えないカトマンズの街でさえも、そんな風に思った。
無くても生きていけるのだ。
そんなものに気を揉むくらいなら、無くてはいきていけないもっと大切なことに目を向けるべきだ。
これから半年もすればおれは日本に帰っる。
日本人にとってなんでもない日常の中で腹が空けばコンビニに行き、寒ければエアコンに頼り、コンセントにさせばいつだって電気を得る事ができる、そんな"当たり前"に染まっていく事だろう。
それはとてもとても便利で心地よいものだけれど、この村での数日間で体感した、何もないにも関わらずなぜか心が満たされるような、不思議な豊かさを、感じられなくなるのではないかと思うと、少し悲しい。
ものに満たされる事ばかりに振り回されるのはもう止めよう。
この感覚は、忘れないように努めよう。
生きていく上で、本当に必要なものだけを知っているような、そんな人でありたい。
幸せを決める物差しは、決して目では見えないようだ。
幸せを、自分の心で見極められるような力が、現代の日本人には必要だ。
物欲に流された人達が作る、社会の架空の幸せの餌に群がるブタになっては悲しい。
ボロボロの布切れ一つをはおい、静寂に包まれた靄がかる山々に包まれて朝の火をおこすおばあちゃんの美しさに、そんな事を思う。
素敵な感覚だと思ったので、忘れないように書き留めておく。
そんなところでっす。
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