ぼっちシンガー香川へ移住!東京での暮らしを振り返る話。


なんがでっきょんな。ぼっちシンガーです。
路上ライブで世界一周や東京での音楽活動を終え、地元の香川にUターン移住。
旅や音楽、香港人妻氏との日常について語るブログだよ!
飛行機の窓から、夕陽に照らされた大都会が見える。
巨大な生物の皮膚を顕微鏡でのぞいているような、無限に広がるコンクリートの細胞膜。それらが真っ赤に燃えるような太陽に素直に照らされて、綺麗だ。
東京。世界中を旅した後になんとなーくやってきたこの街は、旅中のどんな国の大都会よりも途方もなくデカかった。
圧倒的な人々の量で、そのくせ通りすがる人たちは日本人ばっかりで(当たり前のようだけど、これまで回ってきた大都会ではいろんな人種、宗教、国籍の人たちがごちゃ混ぜに暮らしていたのだ)、そして背筋が凍るほど無表情で、誰もがベルトコンベアの上の既製品みたいに秩序正しく駅に吸い込まれていく姿が、異質に感じた。
初めて乗った満員電車、これまで体験した事がないくらいの密度で詰め込まれた人間の固まりを載せて進む車内、しかしその全てが模造品のマネキンのような、まるで生き物が詰め込まれているとは思えないほどに無機質で物静か。
シンと静まり返った電車内に、悲壮感漂うアナウンスが到着が3分遅れたことを伝えている。
一体ここはなんなんだ。こんなに人がいるのに、こんなにも生気が感じられない場所は初めてだ。
おれはこいつらとは違う、生きている!人間だ!と路上ライブで歌ってみても、誰もが誰かの生き様に興味もないかのように、足早に通り過ぎる。
路上シンガーが下手な歌を叫んでいても、酔っ払ったサラリーマンが道端に倒れていても、赤ちゃんを抱いたお母さんが優先席の前で立っていても、だれも気にしない。何も感じない。
最初はこの街のこの圧倒的な「無表情」が、とてつもなく怖かった。
もくじ
きっかけは旅終わりのちょっとした思い付き

「ちょっと東京でも住んでみるか〜一回都会暮らしも経験してみたいし」
世界一周の旅から帰ってきて、どこに住もうかな?と考えてた時のそんなちょっとしたひらめきがきっかけだった。
地元香川から飛び乗ったバスは早朝のバスタ新宿にたどり着いた。
所持金8万円、持ち物はバックパックとギター、仕事なし家無し東京に身寄りなし。
今考えたら無茶苦茶だったが、世界の旅を乗り越えて帰ってきた当時のおれには謎の「まぁなんとかなるやろ」という楽観思考が染みついていて、脳がやられていた。
どうせ日本やし、どうにでもなるだろう。しかし、そんな軽い気持ちでやってきた直後、上記したような東京の独特の雰囲気にカルチャーショックを受けた。
これまでの旅なら、困ってもなんだかんだ周りの旅仲間が助けてくれたり、陽気な現地民達がヘイブラザー!とか言って話しかけてきてくれて、解決策を教えてくれたりしてた。
しかし、ここにあったのは全てに無関心な冷凍都市の沈黙。
新小岩の格安ゲストハウスで連泊しながら仕事を探そうとするものの、住所が無ければ仕事にはつけず、仕事がなければ家も借りれなかった。しかも家賃クソ高いし。
やはり無理があったか…とか諦めかけていたころ、とあるシェアハウスの入居者募集をネットで見つける。
南蒲田のシェアハウス、初期費用なし水道光熱費込み、月25000円。
安!と思いすぐに連絡して内覧させてもらった。ワンルームに二段ベッドが2台並ぶ、風呂トイレ共有の合宿所みたいな場所だったけれど、旅帰りの俺には寝る場所があって温かいシャワーが出て、おまけにエアコンまで付いてるなんて高級ホテルみたいなもんだった。
「家ねぇーんならもう今日から住めばええがぁベッド空いとるけぇ」
こてこての岡山弁のマネージャーの適当な雰囲気にも背中を押され、即日で荷物を持ち込んで住むことにした。
東京生活のスタートは南蒲田の25000円のシェアハウス

このシェアハウスで出会う人たちがとにかく濃くておもしろかった。
世界一周の旅をしたくてお金を貯めてるやつ、スティーブ・ジョブズに憧れて企業を目指してるやつ、その頃出たばかりのビットコインに有り金全部つぎ込んで暴落して逃げてきたやつ、自称パイロットのたぶん違法滞在外国人、自国の学歴エリート至上主義に疲れたエリート韓国人…
すごい立派な目標を持った奴もいれば、クソダメ人間なやつもいたりして、問題は絶えなかったが、俺は思った。
「なるほど、こんなやつらでも暮らしていけるのが東京なのか」
そうなのだ、田舎は違うんだ。
田舎では、人と人とのつながりが濃ゆい分、他人からの目を気にする必要がある。
常に世間はどう思うか?と考えなくちゃならないし、何歳で結婚して、何歳で家を持って、っていう田舎社会のレールから外れた途端に、眉間にシワを寄せられる。
放って置いてくれればいいのに、まるで家族のように真剣に他人の人生におせっかいをやいてきては、責められる。糾弾される。
温かい人間関係の裏には、表裏一体の期待と執着と嫉妬心が粘り着く。
しかし、東京は違う。誰がどうしようと気にしない。
生きていようと死んでいようと興味もない。超個人主義で、超孤立社会。それは冷酷なようで、逆に言えばとてつもなく自由な、誰しもが存在出来る器の大きさを表しているのかもしれない。
誰しもが他人と関わりを持とうとせずに押し黙り、沈黙を保とうとするのは、誰が存在していても許されるこんな場所だからこそ、好きな人とだけ話をして、必要最低限のコミュニケーションでいきたいからではないだろうか。
こんなにもたくさんの人にまみれているのに、心はいつだって誰にもみられない地下室の個室にて、好き放題1人でどんちゃん騒ぎしているような、そんな気分だった。
そんな感じでスタートした東京暮らし。
家が羽田が近かったので、羽田空港内で単発バイトやレストランの派遣社員とかやって働き始めた。
手取りは月20万もなかったが、なにせ家賃が格安で生活費が3万円くらいで抑えれていたのだから、暮らしに余裕はあった。
余ったお金で毎日のようにシェアハウスの仲間と近くのバーで飲んだり、酒を買い込んでパーティをしたり、たまに住人の誘いでDJ聴きにいったりサッカー日本代表見に行ったり、渋谷や下北沢で弾き語りでライブハウスに出たり…とにかく毎日が目まぐるしい刺激に溢れてた。
高校時代や大学時代は基本部屋で引きこもりがちにギター弾いてばっかりだったから、ちょっと遅い青春を謳歌したような気分だった。
毎日楽しかった。楽しかったけど、同時に、このままでいいのか?って気持ちも強くなってた。
ちゃんと真面目に働くと感じ始める停滞感

その後、一年くらいで派遣はやめて、契約社員で今の会社に入った。
今の妻氏と付き合い始めた。そして、楽しかったシェアハウスを3年目で出ることにした。
そこからは浦和のキッチンや風呂だけシェアの個室に住んだり、雑色のワンルームに2人で住んだりした。
「おい!結婚するんかどうするんや!?」と松屋で牛丼食べてる時に詰められ、「ではお願いしまうす…」と成り行きで結婚したが、劇的に何かが変わることはなく。
6畳のワンルームで2人で暮らしながら、毎日がただ単調に流れていった。
仕事も契約社員から徐々にステップアップして普通に暮らせるくらいにはなった。
満員電車にも慣れたし、都市の無関心さも気にならなくなっていた。
蒲田で飲むのも楽しいし気楽に誘える友達もいることにはいる。
ただ、日々は淡々としていた。なんの刺激もなく進展もなく、ただ息をするだけの毎日がだらっと、鼻腔を抜ける鼻水みたいに流れていく。
こんな生活なら、ここにいる意味はあるのか?たまに貯まったタンを咳き込んで吐き出したくなるように、そんな思いがぶり返して悩んでしまう。
ただ高い金だけ払ってここに居座り続けて、なにかここでしか成し遂げられないものなどがあるというのか?
怖くなって、たまにギターを抱えて外に出る。閉店後の商店の路地で歌ってみても、だれもが無関心に目の前を通り過ぎていく。
手応えのない東京暮らしの感触に、徐々に心がときめかなくなって来ているのを感じていた。そんなときだった。
9年目の東京暮らしに限界も感じていた、そんなときの妻氏の移住

「わしゃ香川で四国の観光を盛り上げる仕事をするんや!」
そう言って妻氏が1人、地元の香川に移住した。
その時なにか、ふっと目の前の霧が晴れた、そんな気がしたのだ。
妻氏を見送ってしばらくは武蔵新城の個室シェアハウスで暮らしながら、職場に香川への転勤希望を出していた。
ついにその希望が通り一ヶ月後に香川へ!と決まってからは、引っ越し準備や仕事の引き継ぎなどで毎日が嵐のように目まぐるしく、しかしビカビカに輝いて見えた。
後一ヶ月ならこっちでしかやれないやりたい事全部やって、会いたかったやつみんなに会っておこう!と思った。
東京にいるうちにいつか見に行きたいと思ってたトーフビーツや小山田壮平やルサンチマンのライブに行った。
andymoriの聖地巡礼で別所坂や早稲田大学に行った。
行きたかったカレー屋を食べ、人気の居酒屋に勇気を出して入ってみた。
そのうち行きたいなーとか思ってた武蔵新城の人気のコの字居酒屋は店主さんが徳島出身で、四国トークで盛り上がってめちゃくちゃうまかった。もっと早く行けばよかった。
最後の週末には、無駄に西新宿の駅前にゲストハウスを予約して泊まってみた。
帰宅客とインバウンド客でごった返す新宿駅前、ギラギラのネオンサインと排気ガスに当てられながら、ギターを置いて歌った。
夏が過ぎていく。陽が落ちても灼熱のコンクリートジャングル、汗だくになってぐしゃぐしゃになりながら、この大都会のど真ん中で歌う。
目の前を通り過ぎる、暗い顔でケータイをいじり通り過ぎていく若いサラリーマン。
全く届いてないし、聴いてくれてるなんて思い込み、おれの自己満足でしかないのは分かっているんだけれど、歌う。東京に来てすぐの頃に作った、トーキョーイズユアーズって曲。
”必死な奴の汗や涙や喘ぐ声を笑うゴミ貯めたちの街でそれでも俺は歌う。君はカッコ悪くなんかないぜ。”

歌い疲れてぬるいシャワーを浴びて、ゲストハウスのドミトリーベッドにダイブして泥のように眠る。
翌朝4時に目が覚めて、歌舞伎町のあたりまでフラフラ歩いてみる。
仕事終わりのお姉さんや怖そうなお兄さん、散らばるゴミ、誰かの吐いたゲロ、それをついばむカラスとゴキブリ、そのかたわらに横たわるラリって笑って眠ってる若者。
ガート下を歩けば、生きてるのか死んでるのか不確かなほどに微動だにせず眠るホームレス。
始発の中央線の走る音と、アンモニアの香り。
まるで初めてバスタ新宿に辿り着いた時みたいな、圧倒的新宿がそこにあった。
この世の終わりみたいな、世紀末みたいな光景なんだけれど、不思議と心は穏やかだ。
みんな必死に生きた結果流れ着いた場所がここなのだ。
世間体や誰かの目を気にしながら生きたって、所詮他人は他人。
誰のためでもない、自分のための人生を生きるべきだ。だって、誰もお前の人生のことなんて、気にもしてないんだから。
生きたいように生きて、それでもう戻れない最底辺の果てまで滑落した先でも、どっかに逃げ場所があるのが東京なんだ。
そう考えるとこの街は、とてつもなく懐の深い、マザーテレサが建てた死を待つ者の家みたいな慈悲深い場所のようにも見えて来る。
そんな事を、東京暮らしの最後に感じたりもした。
いつしか帰る場所になってた「東京」

厚い雲を抜けた先、飛行機の窓からはトワイライトに包まれる瀬戸の島々と、高松の夜景が見えた。
なんだか、新しい国の知らない街に来た気がした。突如やってくる不安とセンチメンタル。
吉田修一の「横道世之介」という小説で、田舎から上京した主人公が帰省時に「東京に帰るよ」という言葉を使った際、いつのまにか東京こそが帰る場所になっていた、と気づくシーンがあるんだけれど。
なんかその主人公の気分と同じだった。いつも高松空港に着く時は、帰ってきたーって思うのに。
あぁ、そうか、もう東京に帰るってことはなくて、ここが新しい場所になるのか。
いつのまにか、東京が離れがたい大切な場所になってた。
ギラギラのネオンサイン、どこに行っても誰かに見られてて、でも誰1人触れてこなくて、圧倒的に身動きがとりずらいのに、なんだってやれる誰も気にしてないしって心は無敵の自由で。
そんな矛盾に塗れたあの街で暮らしてた。あれはあれで、楽しかったし青春だった。
正直限界も感じてた。だからこれでよかった。これで良かったけれど…いつのまにか、愛着が芽生えてたんだなぁとしみじみ感じる。

さて、高松はどんな街だろう?食事は?人々の生活は?新しい友達は出来るだろうか?
正直、高校出てからずっと県外で20年ぶりくらいに地元に住むことになるので、ここでの暮らしのことなんてとうの昔に忘れ去っている。
ただ、これだけは言える。これから始まる生活を楽しむのも腐らせるのも自分次第なのだ。
ここでも、誰かの目を気にして縮こまったりせずに、精一杯新しい生活を楽しんでやろうじゃないか。
なんとなく、そんな決意じみた事を考えながら、空港のゲートをくぐった。
そんなところです。
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