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おじさんが亡くなって生死について考える話

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ぼっちシンガー
ぼっちシンガー

なんがでっきょんな。ぼっちシンガーです。
20代は路上ライブで世界一周の旅、30代は東京で音楽活動。
旅や音楽、サッカーなど好きなことを鼻息荒く語る。

最近、香川の実家の叔父が亡くなって、仕事を一日だけお休みをもらって東京から地元にトンボ帰りしたんだ。

母方のお兄さんで、結婚はせずに暮らし・10年くらい前から糖尿病で仕事も辞めて施設で闘病生活をしてた。

「東京住んどるんやから無理に帰ってこんでええで」

と家族からは言われたのだが、思えばいろいろと思い出もあり、最後に挨拶を、と思って新幹線に乗った。

病気をする前は実家でばあちゃんと二人暮らしをしていたおじさん。

我が家は親が共働きで子供の頃は毎日ばあちゃんの家に預けられてたので、

ご飯が出来たら二階のおじさんの部屋に弟と一緒に「ご飯できたでー!」と呼びに行くのが、おれたち兄弟の役割だった。

寡黙な人でそんなにたくさん会話をした思い出はないのだが、毎年正月にはお年玉をたんまりくれたり、仕事帰りにお土産のお菓子を買ってきてくれたりと、

自身が独身だったのもあってかなんやかんやおれ達をかわいがってくれてたんだろうなーとは思う。

仕事はJAで農機具の修理とかの仕事をしていたらしい。

自分の親が販売業で土日も仕事・朝から夜遅くまで残業しているなか、おじさんはいつも17:00きっかりに定時帰宅してゆとりのある生活を楽しんでて、「俺も将来はJAで働こう」などと思ってたころもあった。

しかし時間とお金に余裕があって独身でもあった分、酒と女遊びがひどかったらしく、

「部屋によくわからんお店の女が住み着いてる」だの

「フィリピンパブの女と結婚するかもやけど絶対詐欺や」だの、

母親伝いにいろんな愚痴を聞いたりした。

まぁ、ばあちゃんが絵にかいたような近所の世間体を気にする田舎の考えを持つ人で

「○○歳になって結婚もせんと遊んでみっともない!」

などと独身であることを糾弾してよく親子げんかしてるのも見てたので、その反動で女性や自分の人生に対して焦りもあって、酒に逃げたりしてた部分もあったのかな?

子供の頃には気づかなかったおじさんの心の葛藤や焦燥感みたいなものも、今になってなんとなくわかる気がしたりもする。

結局、その遊びすぎがたたって糖尿病を患い、ここ10年くらいは病院生活を続けていた。

週に2回ほど母親が洗濯物を届けてやっていたらしいのだが、いつもどおり服を渡して

「ありがとうな~」

と受け取った翌々日に、病院のトイレで倒れていてそのまま亡くなったそうだ。

あっけない幕引きなのかもしれないが、棺桶の中のおじさんの表情は今まであまり見たことがないような力の抜けた優しい顔をしてて。

おじさんなりに懸命に人生をもがいて生きて、その結果病気で体も不自由になってしまった

今やっとそんなシガラミを脱ぎ捨てて落ち着ける場所に行けたのかも、なんて思うと、

死ってものはそんなに畏怖するものでもなく、心の解放のようなものなのかもしれないな、なんて思った。

葬式の帰り、母親が「人の生死ってなんやと思う?」とか聞いてきて、そのときはめんどくさくて適当に空返事したけれど。

母親の考えとか、おじさんの子供の頃の話とか、もっとたくさん話を聞いておいた方が良かったかもしれない、

などと、香川から東京に戻ってくるときにふと思った。

いつだって、あとになって「もっとこうしていればよかった」とか後悔するのだから、

死ぬ前に「あれやってればよかった」がなるべく少なくすむように、毎日精いっぱい生きないといけないな。

そういえば、おじさんはまだ60代だった。

じいちゃんもそれくらいで死んでるし、そう考えればおれの人生ももう半分切ったのか。

案外早いもんだな。いつまでもダラダラと生きていられるとは思わないようにしよう。

しとしとと雨が降る火葬場の、遺体が燃える間のまったりとしたまどろみのなかで。

10年前にガンジス川のほとりで見た、火葬場のことを思い出す。

金色の紙に包まれた遺体、燃え盛る炎、まだ半焼け状態なのに平然と川に流されて行く焦げた肉片。

その隣で同じ川の水をすくっては口をゆすぎ、朝の歯磨きをするおやじ。

いつも通りの日常に「死」が溶け込んでいる、そんなバラナシの風景。

あの時感じた、特別に恐怖するでもなく感情を激しく揺さぶるわけでもない、

優しく静かな時の流れを、この時にも感じていた。

不謹慎かもしれないが、こうやって個人を想いながらじっくりと生死感を噛み締めて、家族で過ごす時間が取れて良かったな~とか思った。

おじさんが最後に与えてくれた、この感覚や風景を忘れたくなくて、記事にして書き残してみる。



そんなところです。