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石田徹也の言葉と表現することの話

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【世の中には表現する人としなくても生きていける人がいる。】


これは大学時代からおれがずっと持っている、理論であり、自分自身を理解する際の指標であり、そして持病みたいなものの話。

おれ自身は間違いなく前者。

常に何かを作り出して、そこに自分を表現し続けないと気が済まない人間だ。

その方法として作曲活動であったり、動画を作ってYoutubeに投稿したり、文章で起こしてこうしてブログで発信したりという事をやっている。

無いものを創造しクリエイトする、なんていうと聞こえはいいかもしれないが、全然人気がないのでお金にはならないし、休日になると人付き合い皆無で家に引きこもり、黙々とパソコンの前で作業をするだけ。

今の陰湿な生活スタイルの根源ともなっている部分だ。

ただ一端の表現家として、休日のリフレッシュ程度にその活動を楽しめるのならいいのだけれど、上手くいかないとひどく落ち込んでしまう。

そんな自分を厄介にも感じている。

自分にとって表現活動とは趣味というよりも「排泄」や、「息を吐くこと」に近い。

日々の生活でためこんだ思想や考え、苦悩や喜びを作品にして体外に排出しなければ、強いストレスを感じてしまう。


とにかく作り、とにかく出す。


それをコンスタントにやり続けなければ、肺いっぱいに毒素がモクモクとたまっていくような感覚に陥り、作品を生み出すことができない自分に対して価値を感じられなくなってしまう。

作品を作る事こそが唯一、自分を肯定してあげられる方法なのだと感じている。

だから作っていないときの自分にはまるで生きる価値がないように感じてしまうし、そんな自分を責めてしまう。

実は今日も昼間にレコーディングしようとしていた新曲が、スタジオが満室で録れずに悶々としていた。

こんな時はひどく落ち込んでしまう。

いつも何かに追われている気がするし、心に余裕がない。

周りの人達を見てみる。

みんな休日は映画を見たり、漫画を読んだりゲームをしたり、お買い物に出かけたりして過ごす。

何かを見たり聴いたりして、それだけで心が休まったり気が晴れたりする人の事を、俺は本当にうらやましく思う。

おれは、インプットを繰り返すと、はやく自分なりに消化してアウトプットしなきゃ、と焦らされてしまう。

一日をのんびり過ごすことができない。

この感覚は、学生時代から常に付きまとって離さない。

まるで持病のようなものである、と認識している。




このように厄介な自分の性格なのだが、しかしそれに救われることも何度もあった。

作り続けることで何をどうしたいのか。 それは自分でも全く分からない。

求めているものが誰かからの共感なのか、「すごい!」と言ってもらえることによる自己肯定感なのか、それともお金なのか、

もしかしたらそのどれでもないのかもしれないし、すべてなのかもしれない。

ただ一つ、思うのは、創作活動を行っている時間に幸福感を感じられるという事。

その幸福感に俺は何度も助けられてきた。

中学時代いじめられていた時だって、家で一人漫画を描いていた時や、苦しみや絶望を詩にして、ルーズリーフに綴っている時だけは、やつらとは違うんだって全能感を感じられていた。

自分だけにしか生み出せない作品、完成したそれらを眺めるたびに、自分の生に価値を感じられていた。

学校や会社での苦しみも全部、いい作品を作ることにつながっているんだと思い込ませて、日々を生き抜いてきた感覚だってある。

今日のようにその創作時間がうまく確保できないようなことになるとストレスを感じてしまうが、そんなめんどくさい自分の性格については諦めるしかない。

きっと一生この呪縛からは抜け出せない気がするし、これが自分なんだと、アイデンティティとして受け入れてやっていくしかない。



今日みたいな日に、何もやる事が無くなって自暴自棄になる前に、このブログの存在があって良かった。

こうして、今日のような葛藤も、文章にしてこの世に発信出来るのだから。

大好きな画家、石田徹也は言った。

「 何かずーっと描いてて、描くのが僕だって思う。
描かないと僕じゃないような・・・。 」

つぶやきのようだけれど、表現し続けないといけない人の全てを語源化したようで、大好きな言葉。


そんなところです。